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山形県庄内町清川字上川原

震災前取材

 

慶応4年(1868)、奥羽鎮撫総督九条道孝は、庄内追討を布令した。副総督沢為量、参謀大山格之助の率いる新政府軍は、4月14日岩沼を発し、笹谷峠-山形-天童-尾花沢-新庄-本合海を経て、24日早朝、清川の「腹巻岩」を占拠した。

新政府軍主力は、薩摩、長州の連合軍に、天童、新庄藩を加えた総勢500名だった。新政府軍は、腹巻岩山上より清川村に対し砲撃を開始した。庄内軍は松平甚三郎を総大将に、水野弥兵衛を侍大将として、御殿林に布陣しており、ただちに応戦したが新政府軍の火力の前に苦戦となり、村の婦女子を狩川に避難させた。

新政府軍の奇兵が、歓喜寺の裏山に進出し、これに庄内勢の農兵が向かったが、政府軍の火力に驚き、歓喜寺に逃げた。

しかし、午後には松山勢らの援軍が到着し、最上川対岸から腹巻岩に砲火を浴びせ、勝機を掴んだ庄内勢は、狩川村の農兵らが歓喜寺より回り込みときの声を挙げて奇襲をかけた。

この奇襲戦法なども功を奏し、戦況は逆転し、午後3時頃には、庄内勢は腹巻岩の要地を奪還し政府軍を撃退した。この激戦で、庄内勢の戦死者13名、負傷者18名、新政府軍の戦死者は12名、負傷者50名余といわれている。