山形県山形市山寺

震災前取材

 

山寺山内には、いたるところに板碑型の供養碑がきざまれ、各所にある洞窟、岩陰には多数の木製小型五輪塔、こけら経、笹塔婆、千体仏、小型板碑などがなかば土に埋もれて納められている。山寺は古くから庶民信仰の山、先祖供養の山として死後の魂のかえるべき山として信仰をあつめていたと思われる。

山寺立石寺は、平安時代の初めの貞観2年(860)、清和天皇の勅許を得て、慈覚大師によって開かれたと伝えられる。鎌倉以後は戦乱の影響をうけておとろえたが、正平11年(1356)、山形に、最上氏の祖の斯波兼頼が入部し山形城を築いたとき、立石寺は山形の鬼門に当るので、山形の守護神として根本中堂を再建したと伝えられている。

以後、最上諸族間で戦乱が続き、大永元年(1521)、天童頼長が立石寺を攻撃し、寺内の堂宇はことごとく破壊された。天文12年(1543)比叡山根本中堂の常燈火を立石寺根本中堂に移し、慶長時代に最上氏により諸堂は修築された。その後も修築を重ね現在に到っている。

開祖の慈覚大師は名を円仁といい、日本で最初の大師号を清和天皇から賜わった。栃木県の豪族壬生氏に生まれ、大同3年(808)、比叡山で最澄について学んだ。弘仁7年(816)、最澄の東国巡遊に従って全国に天台宗の教えを広めた。そのためか、東北には多くの慈覚大師に関わる伝説がある。

慈覚大師が東北地方で建立した寺は、嘉祥年中(848~50)岩手県平泉の毛越寺、同3年(850)に中尊寺、仁寿3年(853)秋田県象潟の蚶万寺、天安2年(858)福島県伊達市の霊山寺、貞観元年(859)青森県恐山の円通寺、更に貞観2年(860)のこの立石寺と多数あり、薬師堂などの建立に関わる伝説なども各所に多数残っている。

松尾芭蕉は、尾花沢の清風のすすめで、この山寺を訪れている。「奥の細道」には次のように記されている。
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢(しようはく)年旧(としふり)、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心すみ行のみおぼゆ。

閑さや 岩にしみ入 蝉の声

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