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山形県鶴岡市関川

2012/03/30取材

 

関川村は、鼠ヶ関から南東に約12km入った山間の地で、鶴岡城下に抜ける羽州街道の脇街道にあたる。鼠ヵ関川源流が村の中央を流れ、現在は40戸ほどの集落で、古くからの、しなの木の皮を原料とする「しな織り」を伝えている。

幕末期に庄内藩は江戸市中警護を命じられ、当時、江戸で暗躍していた尊王攘夷派の取り締まりに当たった。慶応3年(1868)12月、上山藩などとともに江戸薩摩藩邸を焼き討ちし、それが戊辰戦争の口火となった。そのため、その後の戊辰戦争では、京都守護だった会津藩とともに、西軍による庄内藩攻撃の口実となった。

戊辰戦争に際しては、当時日本一の大地主と言われ、庄内藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に、最新式銃などを装備していた。慶応4年/明治元年(1869)4月23日には、清川口で庄内藩と西軍との間で激戦が行われ、庄内勢は西軍を撃退した。5月には奥羽越列藩同盟が成立したが、同盟軍は武器は旧式で、各地で敗退を続けた。7月29日には長岡城が陥落し、西軍は勢いを増し北上し、庄内藩の藩境に迫った。

8月23日に鼠ヶ関口での戦闘が始まり、26日には小名部口踏切峠でも戦闘が始まった。庄内藩は地の利を生かし国境を守り切った。しかし9月11日に西軍はその矛先を関川口に向け、庄内勢が待ち受ける雷峠を避けて迂回し、山を越えて関川を奇襲、激しい戦闘の末関川口を占領した。

この時の戦いは非常に激しかったようで、戦いの最中、村は庄内勢、西軍の双方から火をかけられ、村の多くが焼失した。また焼け残った民家には西軍が押し入り、略奪を行い、その時の刀傷が残っている。

庄内勢は一旦撤退し、越沢から数度にわたり関川奪還を試みた。しかし9月27日に庄内藩は降伏、庄内藩の戊辰戦争は終結した。この一連の戦闘で、庄内藩の戦死者は村上藩士4名を含む53名にのぼった。またこの関川村の民家の多くは焼失し、また西軍の略奪にあい、暫くの間、極貧の生活を強いられた。