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山形県庄内町清川字花崎…歓喜寺

震災前取材

 

清河八郎は幕末の志士として有名で、天保元年(1830)、庄内藩の郷士斉藤豪寿の子として生まれた。本名は斉藤正明。

弘化4年(1847)江戸に出て、北辰一刀流の千葉周作の玄武館で剣を磨き免許皆伝を得、江戸幕府の学問所昌平黌に学んだ。八郎は尊皇攘夷の考えの下、山岡鉄舟らとともに横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷のもとに倒幕の計画をたて、幕府に追われる立場となった。

八郎は、諸国をまわり尊王攘夷を説き、尊攘志士たちと親交を持った。幕府の政治総裁の松平春嶽に、攘夷の断行、大赦の発令、天下の英材の教育を旨とする急務三策を上書し、尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、八郎は浪士組を結成した。

八郎は密かに、この浪士組を倒幕の先鋒と考えていた。文久3年(1863)2月、八郎は、浪士組を率い、将軍徳川家茂上洛の警護のための前衛として京都へ出発した。京都に到着するとすぐに、八郎は浪士らに、浪士組の真の目的は尊王攘夷の先鋒であることを述べ、朝廷にその旨の建白書を提出した。

しかしこのとき、この浪士組にいた近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らは八郎と意見を異にし、袂を分かち後に新撰組を設立した。この浪士組の動静に不安を持った幕府は、浪士組を江戸へ呼び戻し、八郎は文久3年(1863)4月、幕府の刺客に襲われ討たれ首を切られた。享年34歳。