スポンサーリンク

山形県新庄市宮内町

2015/09/14取材

 

七所明神は、第十五代天皇の応神天皇の皇子、大山守皇子(おおやまもり の みこ)の首を祀っていると伝えられる。

大山守皇子は、仁徳天皇の異母兄に当たる。応神天皇40年(309)、皇太子を決める際に、山川林野の管掌を任されたが、兄である自らが皇太子になれなかったことを恨んでいた。応神天皇の崩御後、密かに皇位を奪おうと謀ったが謀はもれ、逆に討たれた。

しかしこの地では次のように伝えられている。

大山守皇子は次期天皇の座を辞退し、東路を目指して旅立った。しかし連臣らが、「大山守命は東国に下り軍勢を整え、都に攻め上るであろう」讒訴し、天皇となった兄の仁徳天皇は、大山守皇子の追討を命じた。

大山守皇子は各地を転々と逃れたが、一説によれば、最上川下流の現在の庄内町千河原の地で、追討の兵と激しく戦い一面が血の原と化した。皇子は更に逃げ延び、新庄の関屋まで逃げ、倉に隠れている所を追討使に見つかり処刑された。皇子は今際の際に「わが身を七つに斬って、最上鮭延庄に祀れ」と言い残したという。

しかし、追討使は七太刀を浴びせ、誤って八つに分けてしまった。遺骸は新庄を中心とした七個所に葬られた。皇子の首はこの宮内の地に、両手は角沢と鳥越に、両足は松坂と京塚に、胴は枡形に、本合海には男根とが葬られ、、残った一つは現在の尾花沢市の「名木沢」に投げ捨てられた。

七つの塚はたちまち霊端を現わし、少女の姿で現われ、「私を神として祀りなさい。そうすれば人民を守り、諸々の願いを満たし、飢饉のない豊かな国にするだろう」と告げた。村人らは七ヶ所に社を建て、厚く尊びあがめた。

一方、皇子を討った追討氏の連臣は、祟りを恐れ罪を悔い、都へは帰らず最上で一生を終えたという。村人らはこれを哀れみ、新庄の関屋地区に祠を建ててその霊を慰め、それは連臣堂と呼ばれ今に伝えられる。現在でも七所明神へ参拝するものは連臣堂には参らず、連臣へ参拝するものは七所明神を参らないという。

その後、新庄の海藤館の館主の海藤帯刀はことのほか信仰が篤く、社をこの地に移して日参したと伝えられる。また江戸時代の正保4年(1648)には、三代将軍徳川家光より神宮寺社領として209石の朱印を受け、新庄藩主戸沢氏の歴代藩主も、年1回は、本供揃いの行列で参詣したという。

かつては、本殿、拝殿、絵馬堂、楼門、鐘楼などがあったが、明治22年(1899)の大風で建物は大破し、本殿のみが再建された。本殿前の御影石の手洗鉢と石灯篭は、元禄7年(1694)改築当時のもので、内陣の絵馬は、元文2年(1737)、新庄藩三代藩主戸沢正庸が奉納したもの。