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6 thoughts on “掲示板”

  1. 西行さんの追っかけを始めたばかりの別府のオッちゃんです。いきなりの質問で失礼いたします。
    陸奥守に補任された藤原師綱が検注で信夫郡の佐藤季春らと衝突、ついには季春らを斬首するまでに発展した“事件”についてお尋ねしたいことがあります。
    (1)師綱の補任期間は1135(1139とも)~1143年とされるとのことですが、この事件の始まりと斬首による決着時期がいつだったのかが、私の力及ばず、なかなか分かりません。
    もしご存じでしたらご教示願えませんでしょうか。

    西行さんとは親戚筋に当たるある奥州佐藤一族のこの事件、紀州佐藤一族にとっても大事件であり、武士としての名誉、面子にもかかわることだったと考えられます。
    このため、西行さん遁世の大きなきっかけではなかったかと素人推測しておりまして、この事件の顛末を詳しく知りたいと思っております。

    1. 大分掘り下げてお調べになっているのですね。西行については、ミーハー的に「あこぎ」のさわり程度しか知りません。

    2. すでにご覧になっているかもしれませんが、WikiPediaに以下のような記載がありました。参考までに。
      ーーーーーーーーーー
      古事談や十訓抄には、次のような内容で記述されている。
      康治元年(1142年)藤原師綱が国司として陸奥国に赴いたとき、陸奥国は奥州藤原氏第二代の藤原基衡の勢力が強く、国司の力も及ばないほどであった。そこで藤原師綱は国司の力を回復しようと、荘園の土地調査を始めた。 佐藤季春が藤原基衡の命令でこれを妨害したところ戦となり、国司の軍に多くの死者が出た。藤原師綱(国司)は大変怒って、藤原基衡の責任を問い詰めた。 予想外に事件が大きくなってしまったことに驚いた藤原基衡は、どうすれば良いか佐藤季春に相談した。佐藤季春は「あなたは何も知らなかったことにしてすべての罪を私に着せ、私を殺して藤原師綱(国司)の怒りを静めてください」と申し上げた。 藤原基衡は仕方がなく佐藤季春の言うとおりにすることにしたが、何とか佐藤季春の命だけは救おうと藤原師綱(国司)のもとへ良い馬・金・鷲の羽や絹などを届けて命乞いをしたが、藤原師綱(国司)は許さなかったので、泣く泣く佐藤季春とその子、弟など五人を殺した。

    1. 私も「ほくぶおうちょう」と一般的な読み方をしていたのですが、現地では「きたべおうちょう」と読んでるようです。

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