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突然のお願いで申し訳ありません。
小生、現在奈良県に在住しているものですが、高校までは鳴瀬町野蒜新町にて育ちました。
貴サイトの野蒜新町のページで使われている遊郭風の建物の家で育ちました。
この度、自分のブログの中で、自分のファミリーヒストリーを振り返ってみようかなどと思いつき、そのための準備作業の中で気サイトに辿り着きました。
非常に厚かましいお願いではあるのですが、貴サイトの当該の写真を使用させていただく訳にはいかないでしょうか。
よろしくお願いします。
>野蒜新町のページで使われている遊郭風の建物の家で育ちました。<
そうでしたか。「遊郭風の建物」の写真の著作権は私にはありませんが、それ以外の写真でしたらご自由にお使いください。今は名残は何もなくなってしまいましたが、新港の突堤の工事跡に話をつなげていければと思います。
http://mitinoku.biz/hist_walk/hist_miyagi/?p=705
大崎市田尻町大澤に在った百々城について、平塚様からご質問がありましたので、遅ればせながら、1500年代の長谷氏の動向に絞って回答致します。
千葉武石氏第13代・亘理氏第7代従五位下因幡守胤重(1446〜1504)【室 寸苗院青胤松公大姉】の三男であり長谷氏初代の重景(生不肖〜1571[卒歳65])【室 無相院實山眞公大姉】は当初、亘理美作を名乗っていましたが、歳年不肖ながら「奥州名取郡南長谷邑」に居を移し、亘理改め長谷氏を名乗りました。胤重公が薨去し諡号「永源寺殿高山徹公大居士」を以て龍谷山永源寺(現:鷹硯寺)を建立しました。百々城には、重景の嫡男である景重公(1591〜1593)が百々城のある遠田郡沼部邑に移ったのですが、大正15年に刊行された『千葉開府八百年記念 千葉大系圖』には「命伊達陸奥守政宗下達亘理重宗以移居于遠田郡涌谷邑為景重此替于遠田郡大澤邑百々城以居也」とあります。
因みに現在、大崎市田尻町沼部に在る白馬山陽山寺は、景重公の嫡男である重長公(生年不肖〜1664)【室 盧水院月清紅公大姉】の諡号である「陽山寺殿○成異公大居士」を以て建立され涌谷伊達家(亘理家)から明治末まで寺料を拝していました。
また付則乍ら、江戸期最後の当主であった孝繁(杢之[氶の下に漢数字の一]伊織)は、戊辰の役にあたり、幼少であった涌谷伊達家当主(亘理氏)に代わり、陳代として活躍してしました。
以上、お役に立てれば幸いです。
以前、石巻市北上町十三浜白浜にあるビール神社の写真を使わせて欲しいとご連絡したものです。
その節はありがとうございました。
ビール神社の写真に、白い看板が写っています。そこに何と書いてあるのか、今では大変貴重でして、そこが読めるような写真はないでしょうか?
もしあったらで構わないので、もしありましたら、ぜひ、ご提供いただけませんか?
ビール神社の解説板の写真がありましたのでアップしておきます。古い写真ですので解像度はよくないのですが、内容は十分に判読できるようです。ダウンロードの上自由にお使いください。
http://mitinoku.biz/wp-content/uploads/2022/03/P4052324.jpg
大変ご親切にありがとうございました!社守の方もとても喜んでおります!感謝申し上げます!
naniwabitoさん
応援広告ありがとうございました。
ranさん
応援広告ありがとうございました。
ここの動画の多くは、ニコニコ動画にアップしているのですが、そちらに多くのコメントや応援をいただいております。しかし、残念なことに、そちらで直接お礼を述べることができないでいます。お礼の気持ちが伝わるかどうかはわかりませんが、今後、ここの掲示板上でお礼を申しあげていきます。
また、ニコニコ動画に、応援の広告を出していただく方が増えており、大変、ありがたく思っております。ニコ動では無理なのですが、こちらのサイトならば、応援広告をしていただいた方のための、何らかのお返しの広告などを出すことを検討しております。是非、メッセージをお寄せください。
lebens_6さん、セッキーさん、つらみなさん
応援広告ありがとうございました。
西行さんの追っかけを始めたばかりの別府のオッちゃんです。いきなりの質問で失礼いたします。
陸奥守に補任された藤原師綱が検注で信夫郡の佐藤季春らと衝突、ついには季春らを斬首するまでに発展した“事件”についてお尋ねしたいことがあります。
(1)師綱の補任期間は1135(1139とも)~1143年とされるとのことですが、この事件の始まりと斬首による決着時期がいつだったのかが、私の力及ばず、なかなか分かりません。
もしご存じでしたらご教示願えませんでしょうか。
西行さんとは親戚筋に当たるある奥州佐藤一族のこの事件、紀州佐藤一族にとっても大事件であり、武士としての名誉、面子にもかかわることだったと考えられます。
このため、西行さん遁世の大きなきっかけではなかったかと素人推測しておりまして、この事件の顛末を詳しく知りたいと思っております。
大分掘り下げてお調べになっているのですね。西行については、ミーハー的に「あこぎ」のさわり程度しか知りません。
すでにご覧になっているかもしれませんが、WikiPediaに以下のような記載がありました。参考までに。
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古事談や十訓抄には、次のような内容で記述されている。
康治元年(1142年)藤原師綱が国司として陸奥国に赴いたとき、陸奥国は奥州藤原氏第二代の藤原基衡の勢力が強く、国司の力も及ばないほどであった。そこで藤原師綱は国司の力を回復しようと、荘園の土地調査を始めた。 佐藤季春が藤原基衡の命令でこれを妨害したところ戦となり、国司の軍に多くの死者が出た。藤原師綱(国司)は大変怒って、藤原基衡の責任を問い詰めた。 予想外に事件が大きくなってしまったことに驚いた藤原基衡は、どうすれば良いか佐藤季春に相談した。佐藤季春は「あなたは何も知らなかったことにしてすべての罪を私に着せ、私を殺して藤原師綱(国司)の怒りを静めてください」と申し上げた。 藤原基衡は仕方がなく佐藤季春の言うとおりにすることにしたが、何とか佐藤季春の命だけは救おうと藤原師綱(国司)のもとへ良い馬・金・鷲の羽や絹などを届けて命乞いをしたが、藤原師綱(国司)は許さなかったので、泣く泣く佐藤季春とその子、弟など五人を殺した。
この掲示板で、画像(JPG)を使えるようにしました。ご利用ください。
http://mitinoku.biz/?p=3650
北部王朝って「きたべおうちょう」ではなく「ほくぶおうちょう」と読むのではないのですか。
私も「ほくぶおうちょう」と一般的な読み方をしていたのですが、現地では「きたべおうちょう」と読んでるようです。