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山形県酒田市飯森山二丁目

震災前取材

 

庄内藩だった酒田に、昭和51年(1976)、西郷隆盛を祀る南州神社が建立された。

庄内藩は、鳥羽伏見の戦いのきっかけとなった江戸薩摩藩邸の焼き討ちを行った藩であり、戊辰戦争でも新政府軍に対して激しく抵抗した。そのため、庄内藩主並びに藩士らは、降伏の際に、厳しい処分が下ることを覚悟していた。

しかし、参謀の薩摩藩士黒田清隆は、西郷隆盛の指示を受けて、庄内藩に対して極めて寛大な処置を取った。この処置に感激した旧庄内藩士らは、明治になると、西郷を東京や鹿児島に訪ね、教えを請うようになった。明治3年(1870)に、旧庄内藩主酒井忠篤(ただずみ)は薩摩遊学を計画し、旧藩士76人を引き連れて、鹿児島の西郷の元を訪ね、また、旧庄内藩家老の菅実秀も訪れ、薩摩の軍事教育などを学んだ。

明治10年(1877)2月、西南の役の際に、庄内から伴兼之と榊原政治が西郷隆盛の私学校で学んでいた。西南の役が始まると、二人は西郷に従軍を願い許され、熊本城攻撃に参加し、その後、田原坂、植木と戦った。伴は植木の激闘で戦死し、榊原も御船の戦いで重傷を負い、延岡の病院で死亡した。二人の墓は鹿児島の南州墓地の中の、恩師西郷隆盛のすぐ前にある。

菅実秀は、後に西郷の教えを受けた人たちの手記を集め、「南州翁遺訓」を発刊した。旧藩主忠篤も、数名を各地に行脚させ、全国にこれを頒布したという。