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山形県酒田市観音寺字麓山

震災前取材

 

別名:来次城

この地は西に城輪柵、北は秋田方面へ、東は青沢越で新庄最上に抜ける要衝であった。築城は来次氏と伝えられ、来次氏の祖は前九年の役の折に奥羽北部に覇をなしていた清原氏一族と云われている。

承保3年(1076)の後三年の役の折に、末弟の清原時衡は戦列を離れて羽黒山に入り、来次法林の役嗣となって修験道に身を投じ、神仏に奉仕したと云われている。以来二十代にわたり山伏として世を忍んできたが、氏房の時代になると武家としての再興をはかろうという念願から羽黒山を下り、八幡町常禅寺の山中に修験道場をかまえた。

来次時秀の時代になると、古館の地(現在の八幡小学校)に平城を築いたが、防備の面から二十二代氏秀の時に自然の天険を利用した観音寺城をかまえた。来次氏は大宝寺氏と最上氏との関係調整に悩まされ続けながらも勢力を伸ばしていた。天正6年(1578)には大宝寺氏に背いたが、大宝寺氏は武力行使を避け懐柔している。

最上義光の庄内侵攻の際は、鮭延愛綱の書状で氏秀は日和見を決め込んでいる。しかし越後の上杉氏が介入し始め、上杉氏の本荘繁長が庄内に攻め込むとこれに臣従し、以後は上杉氏に仕えて小田原の陣などに従った。関ヶ原の戦いで上杉氏が庄内から離れると来次氏もこの地を離れ、観音寺城は廃城となった。