山形県鶴岡市山王町

震災前取材

 

復鎮霊社は、山王日枝神社の境内にあり、この地に移封された庄内藩の酒井氏により、徳川家康の長男の岡崎三郎信康の霊を弔うために建てられたものである。

岡崎信康の母は、家康の正室の瀬名(築山殿)で今川義元の姪にあたる。妻は織田信長の娘の徳姫であり、当時の松平宗家の居城である岡崎城主を務めていた。信康は若い頃から勇猛果敢で、天正3年(1575)17歳で初陣を長篠合戦で飾り、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げた。天正5年(1577)の遠江横須賀の戦いでは、退却時の殿を努め、武田軍に大井川を越させなかったと伝えられる。岡崎衆を率いて家康をよく補佐したという。

今川の血を引く母築山殿と、今川を滅亡に追い込んだ信長の娘である徳姫は折り合いが悪く、信康とも不和になり、天正7年(1579)、徳姫は父信長に対して十二箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣酒井忠次に託した。徳姫は、信康と不仲であること、築山殿が武田勝頼と内通していることなどを訴えたとされる。

信長は使者の酒井忠次にこれを糾したときに、忠次は信康を庇わなかったという。この結果、信長は家康に、嫡男信康の切腹を要求した。家中ではこれに反対する声も強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあったが、家康は信康の処断を決断し、8月に築山殿を二俣城への護送中に殺害、翌9月に、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた。享年21歳だった。

この信康の死については様々な説があり、信長が自分の嫡男より優れた器量を持つ信康の将来を恐れたためとするものや、徳川家康と信康が対立し、家康が酒井忠次を信長のもとに送りその密約のもとに殺したという説などがある。

また、家康は信康の死を痛く悲しみ、関ヶ原の戦いで徳川秀忠が遅参したとき「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言ったとか、酒井忠次が嫡男の家次の所領に対する不満を訴え出た所、「お前も我が子が可愛いか」ときつい嫌味を返したという逸話が残っている。

いずれにしても真実は闇の中であるが、この事件に深く関わった酒井氏は、徳川政権の下で、なんらかの負い目を感じていたのだろう。庄内に移封後の貞享2年(1685)、幕府をはばかるように社を建て「復鎮霊社」と称した。

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