山形県鶴岡市下山添字一里塚

震災前取材

 

別名:首無し地蔵

最上修理太夫義康の最期の地は、住宅地の奥まった場所にひっそりとあった。

最上義康は、義光の長子であり、義光の名代として各地を転戦し、勇猛でかつ思慮深い名将の資質を持っていたようだ。しかしながら、一時、豊臣秀吉に小姓として上がったことがあり、それに対して次男の最上家親は早くから徳川秀忠に近侍して江戸にあった。

このため、最上の重臣は心情的には義康に近く、しかし最上の家督相続への徳川の意向は次男の家親にあったと言うことは容易に想像できる。

この家督相続を巡って、義康と、父義光がいさかいを起こし、義康は義光から高野山に入ることを命じられる。義康はそれに従い重臣浦山源左衛門らと高野山に向ったが、その途中、大浦城主の下吉忠家中の者20余名に奇襲され、源左衛門は即死、義康も重傷を負った。義康は義光への憤激の言葉を残して自刃し、首をとられたと言う。義康29歳だったと言う。

最上義光は、この事件の真相究明を家臣の斎藤光則に命じ、この事件に関わり出奔し前田家に逃れていた里見父子を連れ帰り、下吉忠のもとに預けた。慶長19年(1614)、義光はその死の年、里見父子を丸岡で切腹させた。これは義光の遺言だったと言う。

結局この事件は、闇の中に葬られたが、義光の死後、家督を継いだ二代藩主最上家親は元和3年(1617)に、毒殺の疑惑を残し急死し、その後重臣達は分裂し、結局元和8年(1622)、最上藩は改易となった。

この最上修理太夫義康の最期の地に、村人達はその死を哀れみ塚を立て、家臣と義康のために2体の地蔵を安置した。しかし石地蔵の首がすぐに落ちてしまい、何回修復しても首が落ちてしまったと言う。そのためこの石地蔵を誰言うとも無く、首なし地蔵と言うようになった。

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