山形県鮭川村大字庭月

2012/07/06取材

 

庭月観音は、正式には庭月山月蔵院といい、最上三十三観音打ち止めの寺として、本堂(笈摺堂おいずりどう)には、おびただしい数の笈摺や金剛杖が納められている。満願成就の巡礼の寺として、今も厚い信仰を受けている。鮭川の河畔に位置し、毎年お盆の時期には灯ろう流しが開催され、仏式では東日本随一といわれている。本尊は一千有余年前の昔、比叡山延暦寺の慈覚大師の作と伝えられる。

創建については次のように伝えられている。

宇多天皇の皇子敦実親王の後胤である六角判官佐々木時信の父の頼綱は、深く仏道を信仰し、夫婦ともども観音経普門品の読誦を日課としていた。あるとき、奥方が病床に就き、命が危うくなったとき、老僧が奥方の枕辺に立ち、比叡山四明獄の使者であると名乗り、薬草を置いて立ち去った。目覚めると枕元に薬草が置いてあり、それを用いると病は忽ち快癒した。不思議に思った時信が、その老僧を訪ね、山奥深くに分け入ったある夜、一条の光明の中に庭月観音像があった。

以降、観音像は佐々木氏代々の尊崇する本尊となり、羽州仙北郡への下向を経て、天文4年(1535)に、その姓を鮭延と改め鮭延城主となった貞綱が、城内に聖観音像を安置したことに始まるとされる。その後。一族の庭月利左衛門広綱は、「観音は人々の苦しみを救う仏であるから、しかるべき霊地へ奉安し、広く一般の人々に礼拝させるようにしたらいかがか」 と進言し、天文15年(1546)に、鮭川沿いの地に堂を建立し、観音像を鎮座した。

その後、この地域は横手の小野寺氏、鶴岡の大宝寺氏、山形の最上氏による戦乱が続き、何度も領主が変わり一時衰退した。近世に入り、新庄藩主の戸沢氏の崇敬を受け、藩主自らの発願により、信徒から寄付を募り、寛文11年4月(1671)現在地に移転され、戸沢氏より、米20石の寄進がなされた。延宝4年(1676)には観音堂が建立された。

現在の観音堂は弘化年間(1844~48)に建てられたもので、境内にはその他におかげ様門や仁王門、巡礼堂、鐘楼、阿弥陀堂などの諸堂がある。

この地には、次のような伝説も伝えられている。

 

・光姫物語

山形城主五代目斯波頼宗の一人娘の光姫は、輝くような美しさだった。この地の庭月領主の大膳国景は、光姫との結婚を願ったがかなわず、光姫を略奪せんと二度までも姫の行列を襲ったが失敗し、処刑された。

光姫は、自分の為に命を落とした国景を哀れに思い、その霊を供養するため、国景の生地のこの庭月まで巡礼し、国景のために涙を流した。

その光姫の涙でぬれた苔の中から一輪の花が咲き、里人たちはいつしかその花を「姫百合」と呼ぶようになった。この光姫の結願によって、庭月観音は、最上三十三観音の「打ち止めの結願」の寺になったという。

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