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山形県米沢市広幡町字成島

震災前取材

 

成島八幡宮の創建は古く、宝亀8年(777)と伝えられる。奈良時代の光仁天皇の時代に蝦夷が乱を起こし、大伴駿河麻呂を将軍として派遣、宇佐神宮に勅願をたてた。駿河麻呂はこの地で苦戦したが、宇佐神宮に念じ勝利した。このためこの地に勅命を得て八幡神社を創建したと云う。

大同2年(807)、征夷大将軍坂上田村麻呂が戦勝を祈願し社殿を造営、永保元年(1081)には源義家が社領を寄進した。以来長井氏、蒲生氏、伊達氏、上杉氏と歴代領主の崇敬をあつめた。

現在の拝殿は、永徳3年(1383)に伊達宗遠が造営したもので、本殿は上杉氏四代藩主綱勝が承応3年(1664)に造営したものである。

特に伊達氏の崇拝は厚く、伊達政宗が米沢を離れ岩出山に移った際には分霊し岩出山城内に祀った。その後、仙台に拠点を遷した際に城下に建立した大崎八幡宮には、成島八幡神社も移され合祀された。

この成島八幡は、生涯伊達政宗を支えた伊達の重臣、片倉小十郎景綱が出たところでもある。

景綱はこの八幡宮の神官片倉景重の次男として生まれた。景綱は伊達家の宿老遠藤基信に見出され、伊達輝宗に仕え、輝宗からその才を見出され、嫡男政宗の近侍に抜擢された。

八幡神社は、丘陵上に位置し、境内の北側と西側は高さ約約2mの土塁で囲まれ、また外側には空堀の跡が見受けられ、西側には虎口の跡と思われる遺構も残されている。片倉景綱がこの八幡宮の神官の子であり、八幡神社が中世城館の特徴を持っていることは興味深い。