山形県米沢市城南五丁目…照陽寺

震災前取材

 

上杉憲政は、大永3年(1523)、上杉憲房の子として生まれた。憲房が57歳という高齢でもうけた男子で、憲房が死去したときはまだ3歳だった。このため家督は憲房の養子であった上杉憲寛が継いで当主となったが、その後享禄4年(1531)、憲寛は追放され、憲政が山内上杉家の家督を継ぎ、関東管領となった。

時代はすでに戦国期に入っており、憲政も信濃方面に勢威を拡大しようとしたが、逆に北条氏が南方から勢力を拡大してきており、これを危惧する憲政は、天文15年(1546)に古河公方足利晴氏や扇谷上杉家の上杉朝定と共に北条綱成が守る河越城を大軍で包囲した。しかしこの戦いで、逆に北条氏康に大敗を喫し居城である上野平井城にかろうじて逃れた。

その後、勢力の立て直しを図ったが、天文16年(1547)には信濃において武田晴信に大敗を喫し、次第に上野に押し込められるようになった。天文20年(1551)には、北条氏康の上野侵攻に遭い、憲政は常陸国の佐竹氏の保護を求めたが拒否され、天文21年(1552)1月、ついに関東を放棄し越後の長尾景虎のもとに逃れた。このとき、平井城に留まった嫡男の龍若丸は、氏康に捕らえられ処刑されたとも伝えられる(異説あり)。

弘治3年(1557)、憲政は長尾景虎を養子とし、永禄4年(1561年)3月に、鎌倉鶴岡八幡宮において長尾景虎に関東管領職を譲渡した。これ以降長尾景虎は上杉政虎(後に謙信)と名乗ることになる。憲政はその後、隠居して剃髪し光徹と号した。

天正6年(1578)に上杉謙信が没すると、その養子である景虎と景勝との間で家督をめぐり御館の乱が勃発した。当初は両勢力は拮抗していたが、景勝側は越後の国人勢力や武田勝頼に支持され、次第に有利になり、景虎は憲政の居館である御館に立て籠もり抵抗を続けたが窮地に立たされた。天正7年(1579)、憲政は景虎の嫡男で景勝の甥にあたる道満丸とともに、和睦の交渉のため春日山城の景勝のもとに向かったが、二人は景勝方の武士によって陣所で討たれたという(異説あり)。享年57歳だった。

越後の照陽寺に葬られたが、照陽寺は上杉家の移封に伴い米沢へ移り、憲政の墓もこの地に移った。

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