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山形県白鷹町鮎貝

震災前取材

 

本庄氏は桓武平氏の流れを汲み、建永元年(1206)ごろ越後小泉庄の本庄、加納、両所の地頭となり本庄氏を称した。

本庄氏は、本庄繁長の代に上杉謙信に臣従し、川中島の戦いや関東攻めなど、謙信に従って各地を転戦し武功を挙げた。

一時、謙信に背いたこともあり、また天正6年(1578)の御館の乱では、上杉景虎を支持したが後に降伏、その後は新発田重家討伐など上杉家臣として様々な軍功を挙げ た。

中でも、本庄氏は出羽庄内の大宝寺(武藤)氏と結びつきが強かったため、上杉の庄内支配に大きく貢献した。

その後、上杉景勝により一万石を与えられ、景勝が会津に転封になるとそれに従い、守山城(郡山市)城代に任じられた。関ヶ原の戦いに際しては、福島城に移り、伊達勢と戦い寡勢ながら一歩も引かず撃退した。

関ヶ原戦後も福島城代を務め、繁長の死後も充長、重長、政長と福島上代を務めた。しかし本庄政長の代の寛文4年(1664)、三代藩主上杉綱勝が嗣子を定めないまま急死、改易となるところを、綱勝の妹と高家の吉良義央の間に生まれた綱憲が末期養子に認められ、半減の置賜郡内15万石での存続が認められた。

このことにより、福島は幕府の天領になり、本庄氏は鮎貝に移った。

鮎貝では代々御役屋将として 幕末を向かえる。そして慶応4年(1868)、本庄昌長の代の戊辰戦争の際には、上杉米沢藩は、仙台藩とともに奥羽越列藩同盟の中枢となり、昌長は上杉軍を率い、同年7月、奥羽列藩同盟の総督として、上山、山形をはじめとした同盟軍を率いて秋田討伐に出陣した。尾花沢から黒森峠の秋田勢を攻略し、秋田領深く院内まで進出した。

しかし同年9月、米沢藩は官軍に降伏し庄内藩討伐の命を受けた。昌長は、先鋒隊長として大洞嶺を突破し田麦保に進軍、庄内に降伏使節を送り和議の仲介を行い、新政府軍の鶴岡無血入城の斜旋を行った。

その後、廃藩置県で上杉米沢藩は消滅し、本庄氏は、他の藩士らとともに北海道開拓のために明治23年(1890)この地を離れ、北海道厚岸郡に屯田兵隊長として移住した。

この地に残る鮎貝時代の本庄一族の墓のほかに、福島城代時代の繁長から政長までの墓は福島市の長楽寺に残っている。