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山形県朝日町宮宿

震災前取材

 

戦国期に、岸美作守義忠によって築城されたと伝えられる。

朝日町の東、標高およそ400mの館山山頂に主郭が置かれ、主郭部を中心に、北西、北東、南西、南東の四方の尾根上に曲輪群が配されている。主郭部は東西約60m、南北約20mの平場で、現在はテレビ局の施設が建っている。城域には三重掘、たて掘、などの遺構が見られるという。

永禄8年(1565)、岸美作守義満の娘の弥生姫と八ツ沼城主原甲斐守の子兼道とが婚姻したことにより、五百川合戦が起こったと伝えられる。最上義光は大軍で八ツ沼城とこの鳥谷ヶ森城の両城を攻め、両城ともに落城した。

この地は最上氏の支配するところとなり、最上川を挟んだ八ツ沼城とともに山形平野の西の防御線として重視された。しかし慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際の出羽合戦では上杉勢の攻撃を受け再び落城した。戦後再び最上氏の支城となったが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城になったと思われる。