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山形県朝日町大沼

震災前取材

 

浮島稲荷神社は、白鳳9年(680)、役小角がこの地を発見し、和銅元年(708)にその弟子が祠を建立したのが始まりとされる。以後、修験僧や歴代領主の信仰の対象になった。

その後、寒河江城主大江広元の勧めで、源頼朝が祈願所を置き、大江親広が社殿を修理するなど大江氏の篤い庇護を受けた。

大江氏が滅亡すると、山形城主最上義光がこの地を領し社殿を修復し国家鎮護の祈願所とした、豊臣秀次事件が起きたときは、長男の最上義康、次男の家親が立願状を治めた。

上杉景勝が会津に入り、庄内への直道朝日軍道を開いたとき、これを最上義光に知らせ、その功により安堵状を与えられた。最上氏は、家中に危機がある毎に参拝に訪れ、多くの奉納物を寄進し、社殿の改修をするなどしたとされ、山形藩二代藩主最上家親も社殿を修理し、山形最上藩最後の藩主、三代義俊も石灯籠を寄進するなどした。

その後、元和8年(1622)に山形最上藩が改易されると、三代将軍徳川家光が祈願所とし、神殿に葵の神紋が許されるなど保護を受けた。

湖に浮かぶ島は60余りあり、その時々で位置や形が変わり、古来より自然崇拝の対象となっていた。島の位置や形で吉凶を占い、特に海上安全に御利益があるとされ、漁業関係の信仰が厚く今も遠距離からも参拝に訪れると云う。