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山形県山形市釈迦堂

震災前取材

 

この地は遠い昔、陸奥と出羽を結ぶ官道が通っており、笹谷峠を越え、都にも通じていた。唐松観音は、この旧道沿いの断崖上にある。

室町時代には、最上三十三観音第五番霊場となり、巡礼の訪れも多くなった。また江戸期には代々の山形城主も篤く信仰し、中でも松平下総守忠弘は、寛文元年(1661)、その由緒に因み、京の清水観音の舞台を模して、堂宇を建立寄進した。その後幾度か修復を重ね、現在の堂宇は昭和51年(1976)再建されたものである。

遠く平安の昔、馬見ヶ崎川の上流にある宝沢の里に、炭焼藤太と呼ばれていた長者が住んでいた。この藤太を慕って、京の都から中一条殿の豊丸姫がたずねて来た。かねてより信仰している清水観音のお告げにより、宝沢に住む藤太との縁を知り、はるばるたずねて来たものだった。
藤太と豊丸姫は夫婦になり仲睦まじく暮らし、三人の男の子をもうけ、吉次、吉内、吉六と名付け、幸せに暮らした。

藤太夫婦は、これも信仰する観世音菩薩のおかげであると思い、他の人々にもこの幸せをと、姫が都から持参した弘法大師作と云われる念持仏の聖観音像をこの唐松山の岩窟に安置し、唐松観音と名付けた。

藤太夫婦の子供たちは長じて藤原秀衡に仕え、その内の吉次は、源義経に仕えた金売吉次だと伝えられている。