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山形県山形市門伝

震災前取材

 

富神山は、山形市の西部に位置し、標高は低いがピラミッド形の美しい姿を見せている。地元では「さんかくやま」の名で呼ばれている。山頂からは、東側に山形盆地が一望の下に見ることができる。

この富神山麓をかつて狐越街道が通っており、関ヶ原の戦いを前に、慶長5年(1600)、上杉の名将の直江兼続率いる2万の大軍がこの地から山形盆地に入った。しかし戦い利あらず、関ヶ原本戦での西軍敗北の知らせを受け、上杉勢は菅沢山の本陣からこの地を通り米沢に撤退した。

関ヶ原の戦いでの東軍の勝利を知った最上勢は勢いつき、撤退する上杉勢を猛烈に追撃した。最上勢はこの富神山麓で上杉勢に追いつき、この地でも激烈な戦闘が行われた。上杉勢の殿軍は水原親憲と前田慶次だった。執拗に食らいつく最上勢に対して、大身の槍を引っさげた慶次らが突っ込みこれをなぎ倒し、そこに水原の鉄砲隊200が撃ちかけた。最上側の記録では、最上勢600余、上杉勢1500余が討ち死にというまれに見る激戦だった。最上義光自身も、ここで兜に銃弾を受けて、命に別状はなかったものの兜の篠垂が吹き飛ばされたという。

現在この地は近くの県民の森とともに、山形市民の絶好のトレッキングコースとなっている。