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山形県山形市鉄砲町二丁目…光禅寺

震災前取材

 

最上義光は最上義守の長男で、妹に伊達輝宗の正室(伊達政宗の母)の義姫がいる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。

義光が家督相続をした当時は一族の結束はすでに崩壊しており、一族等は各地で独自に領国を形成し、時には最上家の意向に従おうとしなかった。当主となった義光は出羽統一に踏み出し、謀略をほしいままに攻略をすすめていった。天正6年(1578)には上山の上山満兼の重臣の里見民部少輔に誘いをかけ、満兼を攻撃して討ち取らせ上山城を陥落させた。天正11年(1583)には、庄内の大宝寺義氏の家臣の前森蔵人に内応させ義氏を急襲しこれを自刃させた。天正12年(1584)には天童氏と盟約を結ぶ延沢満延を切り崩し天童氏を追放した。同年、谷地城主の白鳥長久を謀略を持って山形城に誘い出し自ら斬殺した。

出羽統一をほぼ果たした天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、本領24万石の安堵を受けた。その後は秀吉に従うが、豊臣秀次事件への関与を疑われ、また秀次の側室になっていた愛娘の駒姫が処刑されたことにより急速に徳川家康に接近していく。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの折の出羽合戦では侵攻する上杉勢に対して頑強に抵抗し、関ヶ原本戦での東軍の勝利に乗じて一気に庄内、由利郡を攻め、戦後57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。その後は藩政の確立に尽力し、山形城の大改築、山形城下の開発を行い、また最上川水運の開発、治水工事を積極的に推進した。

しかし最上家の存続を思い、長子の義康を豊臣秀吉の小姓として上げ、次男の家親を徳川秀忠に近侍させていたことが裏目に出て、慶長8年(1603、異説あり)嫡男の義康が何者かによって暗殺された。このことが間接的に後に最上家改易の原因となった。

慶長10年(1605)、次男の家親に家督を譲り鶴岡に隠居する。 慶長19年(1614)、義光は病躯をおして江戸に上り秀忠に謁見、さらにその後駿府に赴き家康に謁して最上家の今後を託し、明けて慶長19年(1614)1月、山形城に戻りまもなく病死した。享年69歳だった。