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山形県河北町溝延

震災前取材

 

溝延城は、最上川と寒河江川の合流点から北西2kmの微高地に位置する。主郭、二の郭、三の郭からなる輪郭式の平城で、各郭には水濠がまわされていた。現在、主郭跡が城址公園となっているが、現在城域の南西端に当たる溝延八幡神社の境内脇には、往時の名残と思われる水路と土盛りが見られるが、宅地化により以遺構の多くは失われている。

文治5年(1189)、鎌倉幕府の開府に尽力した大江広元は、その功績により、出羽長井、寒河江の地頭に任ぜられ、嫡男親広に寒河江の地頭職を相続させた。13世紀末、大江氏は、元顕の代に本格的に寒河江に下向した。

南北朝期、 大江氏は南朝方として、溝延、白岩、左沢等に庶流を分知し、最上川西岸を惣領支配した。延文元年(正平11、1358)、北朝方の斯波兼頼が「出羽按察使」に任ぜられ羽前山形に入部すると、寒河江大江氏は最上川を挟んでこれと対峙した。このような時期に溝延城は、大江時茂の庶子茂信により築かれたと伝えられる。

貞治6年(正平22 1367)、越後の南朝勢力が北朝に対して一斉蜂起すると、寒河江大江氏もこれに呼応して斯波兼頼と対立、溝延茂信率いる寒河江軍は、漆川で鎌倉公方斯波氏等の北朝軍に挑んだが壊滅的な敗北を喫した。寒河江大江氏と溝延氏はかろうじて滅亡を免れ、茂信の死後、家広が家督を相続し、その後も寒河江の惣領家に出仕し、徐々に自立した在地勢力として勢力を盛り返した。

元亀2年(1571)、最上義光が最上氏を継ぐと、出羽統一を目指し、領国統治を強化し、反抗する庶子家や在地領主の制圧に動きはじめた。天正12年(1584)には最上氏と婚姻関係にあった谷地城主白鳥長久を山形城に招き、謀殺し谷地城を手中に収め、その矛先を寒河江城に向けた。

この時の寒河江氏の当主は、溝延氏から入嗣した高基で、高基は溝延氏や白鳥氏家臣団とともに最上軍に抗したが敗れ、溝延氏は寒河江氏嫡流とともに滅亡した。