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山形県寒河江市八幡町

震災前取材

 

この八幡宮は、古くは現在の寒河江市高瀬山近くにあり、康平5年(1060)、源頼義、義家父子が前九年の役の際に、奥州平定の祈願をし、その霊験があらたかだったことにより、寛治7年(1090)に八幡宮として祀り、3000坪の神領を寄進した。

その後、大江広元が文治5年(1187)、源頼朝より寒河江荘を賜り、最上川西一円の地頭となり、建久2年(1191)、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を分霊し、田地1000石を寄進し、現在の地に社殿を建立した。以来400年間、大江氏の庇護を受けた。

大江氏は、天正12年(1583)、出羽守最上義光に亡ぼされたが、義光も敬神の念篤く黒印を与えた。山形最上藩が改易の後は、寒河江は幕府の直轄地となり陣屋が置かれ、代官が派遣された。八幡宮は幕府直轄の御朱印となり、寒河江本郷17ヶ村と川西の総鎮守として信仰を集めた。

寒河江は代官様のお膝元ということで、「寒河江千軒」の町として繁栄し、紅花や青苧、漆を扱う大商人が軒を並べ、市の立つ日には大勢の人々が集まってきた。正徳年間(1711~16)頃から、八幡宮の例祭では神輿が町を巡るようになった。享保12年(1727)からは、「チャンチャンネンツン」と称する若衆の手により「祇園囃子」が町を廻った。

文化文政のころになると、各町や富豪層は「山車」を出して祭礼を盛り上げた。六供町の又三郎は「風流三国志」、治郎兵衛は「日高川入相楼」、川嶋屋は「須磨浦塩汲」、高津屋は「龍宮」、六右衛門は「養老屋」、かどやは「足柄山」、新町も横町も石川も華麗な山車を出し巡幸するものになった。