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山形県寒河江市八幡町

震災前取材

 

明治元年(1868)9月20日、この地で、旧幕府軍と新政府軍の戦いが行われた。この時期は、すでに奥羽越列藩同盟は瓦解し、米沢藩、仙台藩も降伏し、会津鶴ヶ城も落城寸前 の時期だった。

幕末時期、桑名藩主の松平定敬は、京都所司代で兄の会津藩主松平容保とともに、混乱する京都の警護に当たっていた。大政奉還で徳川政権が倒れると、両藩はその任を解かれて帰藩を命じられた。しかし、桑名城はこのときすでに、薩摩長州軍に包囲されており、桑名に帰ることができず、会津藩を頼り会津に入り、会津戦争に参戦した。定敬は会津と運命を共にしようとしたが、容保はそれを許さず、桑名藩兵は庄内藩を頼り北上した。

桑名本隊は、出羽寒河江を警護していた庄内勢と合流するため8月25日会津喜多方の塩川を出発、途中、福島城にいた桑名藩主松平定敬に会うために福島城に向かった。9月9日に土湯峠を越えて、11日夜福島城下に着いたが、藩主には一歩違いで会えなかった。

福島城で、庄内藩の部隊と合流、共に寒河江に向かい13日に福島を出発し、笹谷峠を越え山形城を経て16日寒河江に着いた。桑名藩の神風隊は、現在の大江町左沢に分遣し、寒河江には庄内藩の三番隊、五番銃隊、桑名藩の、雷神隊、致人隊の二隊、合計約300人が宿営した。

9月18日朝、西郷隆盛率いる新政府軍2500は、降伏した米沢藩兵を先鋒とし鶴岡城攻略のために出発した。9月20日朝、濃霧の中、新政府軍は朝食中の桑名藩と庄内藩を急襲した。庄内藩はすぐに兵をまとめ西北の長岡山に引き上げた。桑名藩は沼川沿いに陣を敷き抗戦したが、圧倒的な新政府軍の攻撃にさらされ、結局長岡山に兵を引きあげた。

庄内勢と桑名勢は合流し守備戦線を築き、新政府軍の猛攻に対して果敢に防衛戦を展開するが、午後になると包囲され、やむなく包囲網を突破し、北の白岩方面に脱出、左沢の桑名の神風隊が援軍に到着したところで、寒河江川をはさんで、2時間ほど銃撃戦を展開した。しかし多勢に無勢で結局抗しきれず、夜間行軍で肘折温泉に引き上げ、庄内藩領に逃れた。

このときの戦いで、桑名軍の戦死者は19名、新政府軍は10名が戦死した。庄内藩は、9月25日に降伏した。戦後、桑名藩士の戦死体は野ざらしにされたが、この古戦場の近くの陽春院の住職が葬り、陽春院の一角に合祀された。