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山形県村山市晦日町

震災前取材

 

愛宕神社入口の切通しのすぐわきに、楯岡城の最後の城主となった多田義賢の碑がある。

楯岡城は、応永13年(1406)、山形城主最上満直の四男の最上伊予守満国が入り、楯岡氏を名乗り七代189年間在城した。その後七代満茂は、最上義光の片腕とし小野寺氏と戦い、秋田の湯沢城を攻め落とし、その城主となり、後に本荘城に移り楯岡を離れた。

楯岡城は城主不在となり、真室城主の鮭延秀綱などが勤番となり管理していたが、元和4年(1618)、最上義光の弟の多田甲斐守光直を1万6千石で楯岡城主となった。

光直は入部以来城郭を整備し、湯沢沼を築堤し、切通しを開削するなど領内の治世に励んだ。光直の跡を継いだ義賢も父の事業を継続し城下町を整えた。

しかし、元和3年(1617)に没した山形最上二代藩主最上家親の死には、当初から毒殺の噂があったが、寒河江白岩城の城主の松根行広が、元和8年(1622)江戸に出て、最上家親の死を楯岡光直による毒殺と訴え、最上義俊擁立派として光直ら山野辺義忠擁立派と対立した。

最上家親が鷹狩りの後楯岡城に立ち寄り、光直の饗応を受け、その夜突如家親は悶死したという説があるが真実は定かではない。結局、松根行広の訴えは事実無根として咎を負ったが、この結果、同年、最上氏は改易され、楯岡城も幕府から没収され廃城となった。