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山形県村山市楯岡

震災前取材

 

この楯岡城のあった楯山には、太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年(1942)から、終戦の昭和20年(1945)まで、「楯山防空監視哨」が置かれた。

昭和16年(1941)12月の開戦から昭和17(1942)年5月まで、日本は順調に勝利を重ねていたが、この年の4月に、米軍機の日本本土への初めての空爆が行われ、6月にはミッドウェー海戦で敗北し、8月に米軍はガダルカナル島に上陸し本格的な反攻が始まった。日増しに戦況は不利になり、翌昭和18年(1943)2月には日本はガダルカナルを撤退、5月にはアッツ島が玉砕した。

日本本土空襲の恐れが高まり、山形県内にも敵機襲来に備え、数箇所の防空監視哨が設けられ、この楯山の監視哨はその内の一つである。八角形の壕が造営されたが、これは下界や周囲の喧騒が聞こえないように、中に入り爆音を聞くためであったという。壕の東側には平屋造りの約12坪の建物があって、事務室、台所、休憩室に分けられていた。

哨長1名、副哨長2名を幹部として5班編成とし、班は班長以下6名で勤務した。3交代制で2名は外で監視、2名は事務連絡、あとの2名は休憩、就寝で次の勤務に備えた。

厳寒の時期も昼夜の別なく、水もなく、物資は全て山麓から担ぎ上げる苛酷な生活だったと云う。