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山形県村山市楯岡

震災前取材

 

別名:鶴舞城

楯岡城は周囲を断崖や湖沼に遮られた、比高110m程の山上に築かれた堅固な山城である。城域は東西400m、南北200mに及ぶ西楯山と、東西150m、南北150mの中楯山からなる。城主の館は楯山の南麓にあり、その周辺には家臣の屋敷があり、城下町を形成していた。

本郭は西楯山に置かれ、南西斜面に沿って、ニノ郭、三ノ郭を階段状に配しており、その他数多くの段曲輪や腰曲輪が築かれ、小さな堀切も散見される。また本郭北側の尾根筋に沿っても何段もの段曲輪が構築されている。こちら側には小規模な石塁があり、小さな横堀も見られる。

中楯山に向かう尾根の鞍部には二重堀切が見られ、中楯山にも多くの削平地が造られており、横堀らしい地形も見られる。中楯山本郭と中楯山ニノ郭の間には横堀と土塁が築かれている。

山中には、この城で使われたと思われる、サイカチ、シャガ、ヤダケが群生している。

楯岡城は、承元2年(1208)、前森今嶺が築城したと伝えられる。前森氏は四代52年間在城し没落した。前森氏の没落後は、弘長元年(1261)、本城氏が入部し、五代144年間在城した。

本城氏の没落後は、応永13年(1406)、山形城主最上満直の四男の最上伊予守満国が入り、楯岡氏を名乗り七代189年間在城した。初代満国は、祥雲寺を創建し、楯岡八幡神社社殿を再建し、この地の基礎を築いた。その後七代満茂は、最上義光の片腕とし小野寺氏と戦い、秋田の湯沢城を攻め落とし、その城主となり、後に本荘城に移り楯岡を離れた。

楯岡城は城主不在となり勤番を置き城を管理していたが、元和4年(1618)に最上義光の弟の、甲斐守光直を配した。光直は入部以来城郭を整備し、湯沢沼を築堤し、切通しを開削し城下町を整えた。

しかし、二代甲斐守義賢の時代の元和8年(1622)、最上氏は改易され、楯岡城も幕府から没収され廃城となった。