山形県鶴岡市馬場町

震災前取材

別名:大宝寺城、鶴ヶ岡城

鶴岡城は庄内平野の中心に位置する平城。もともと大宝寺、または大梵字と呼ばれていた。築城は戦国時代以前とされ、武藤氏(大宝寺氏)という。

天正11年(1583)、武藤義氏が近臣の謀反によって凄絶な最期を遂げると、庄内地方は混乱状態になり、やがて上杉氏の支配を受けるようになる。天正18年(1590)、庄内の地侍たちが太閤検地に反対して蜂起した際、大宝寺城(鶴岡城)は占拠されたが、上杉の重臣、直江兼続はこれを鎮圧し支配を強めた。

その後、関ヶ原の戦いの折の出羽合戦において、上杉勢は最上領を侵攻したが、関ヶ原の戦いは東軍の勝利となり、上杉勢は撤退し、これに乗じた東軍の最上義光は一気に庄内を攻め上杉勢を庄内から駆逐した。

この功により、慶長6年(1601)最上義光は念願の庄内三郡を手に入れた。慶長8年(1603)、酒田に巨大亀が上陸したのを吉事として酒田の東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城を鶴ヶ岡城、尾浦城を大山城と改称し、この三つの城を庄内の拠点とした。

しかし、慶長19年(1614)、義光が亡くなると大阪の陣を前に、二代藩主最上家親が実弟の清水義親を清水城に攻め亡ぼし、清水派の一栗兵部が、鶴岡城内で亀ヶ崎城主志村光清と大山城主下吉忠を殺害する事件が起きた。

その後も最上家中では家臣団の内紛が続き、元和8年(1622)ついに改易された。

その後最上領は細分化され、庄内には徳川四天王の一人と謳われた酒井忠次の孫の酒井忠勝が入り、庄内藩13万8千石が成立した。以後江戸時代を通じてこの酒井家が庄内を統治した。

忠勝は庄内に転封し、最上家の遺臣など多くの浪人を召し抱え、各地から商人や職人を招致し、本格的に鶴岡城を修築し、抜本的な城下町建設に着手した。城下町建設が進むとともに、次第に、鶴岡は賑わいをみせ、鶴岡は庄内の一大中心地として大きく成長していった。

元和検地などの武断的な政策は、領民の反感をかったりもしたが、天保の改革の時に、老中水野忠邦は、庄内藩酒井家を越後長岡に転封させることにしたが、領民による大規模な嘆願運動が起こり白紙撤回される様なこともあり、庄内は明治まで酒井氏が治めた。

幕末には、庄内藩は佐幕の雄であり、倒幕派からは会津と並ぶ仇敵と看做された。庄内藩は朝敵とされるが、天童、山形、新庄、秋田の諸藩を相手に戦い、奥羽越列藩同盟が結成されるとその中心となって奥羽諸藩が降服する中、最後まで新政府軍と戦った。明治9年(1876)、城は解体された。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です