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山形県鶴岡市馬場町

震災前取材

到道館は、名君として名高い庄内藩九代の酒井忠徳が、士道が乱れ、華美を好み横暴をきわめる弊風を刷新し、藩政の振興をはかるため、文化2年(1805)に学問所として創設した。

その後、文化13年(1816)、十代藩主酒井忠器が、居城に近い三の丸内の現在地に移し、藩の政務を処理する会所と学校とを合わせた珍しい仕組みとして整備した。

到道館とは、論語の一節「君子学ンデ以テ其ノ道ヲ致ス」から名付けられたと云う。

藩校の組織はすべて中国式で、その中心は孔子を祀った聖廟だった。教育方針は徂徠学を本旨とし、画一的な講釈を好まず、各人の能力に応じた少人数を対象とする個別的な指導法をとったために、多くの小教場を必要とし、数多くの部屋が設けられた。
到道館内の「御入りの間」は、庄内藩の政務を司ったところで、一番奥の「御居間」は、藩主の御成りの間だった。御居間は天井を高くして壁土を盛り、床下に砂囲いを設けるなど、藩主の身を守る工夫がされている。

庄内藩が戊辰戦争に破れた折に、この部屋に官軍参謀の黒田清隆を迎えて降伏し謝罪した、歴史的な場所でもある。鶴岡県庁が置かれた当時は、時の県令三島通庸は御居間を県令室に充てて、明治政府の威厳を示したと云う。

明治6年(1873)に廃校とされてから、鶴岡県庁、鶴岡警察署の庁舎として使われた。その後、女子教育の明倫学校となり、鶴岡高等女学校の開校もここで行われ、さらに、最近までは鶴岡市立朝書ヌ第一小学校として使用されていた。

東北地方で藩校としてその名をとどめているのは到道館のみで、昭和26年(1951)、国の史跡に指定されている。