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山形県天童市天童字城山

震災前取材

 

建勲(たけいさお)神社は、天童藩の始祖である織田信長をまつった神社。明治3年(1870)、天童藩の知事であった織田信敏(のぶとし)が城山山頂に社殿を造営し、明治17年(1884)に現在の場所に移った。

織田氏は、織田信長の死後急速に衰退し、天下の表舞台からその名を消した。信長の嫡流は、関ヶ原の戦いで西軍に与し岐阜城攻防戦で敗れたため改易され断絶した。代わって信長の次男の織田信雄の系統が信長の嫡流となり、上野国小幡藩において2万石を領した。このとき、信長以来の名族であるという格式を幕府から重んじられて、国持大名格や網代の輿、爪折の傘を用いる特権を与えられた。

しかし、明和4年(1767)小幡藩に内紛が起き、さらに幕府転覆の疑いを受けた山県大弐事件に連座し、小幡から山形高畠への移封を命じられ、それまでの特権も全て剥奪された。さらに天明の大飢饉で藩財政は極端に悪化し、家臣団ですら食うに困って織田家から辞した者も少なくなく、藩主は所領の大部分が天童を中心とした村山郡に集中していることを考慮して、居館を高畠陣屋から天童に移すことを幕府に願った。文政11年(1828)に幕府からこれを許され、天保元年(1830)に陣屋を天童に移した。このため、以後は天童藩となった。

戊辰戦争時には、小藩の悲しさで、朝廷の命で新政府軍の奥州への先導を行うが、このことにより幕府側の庄内藩に攻められ大敗し、天童藩も奥羽越列藩同盟に参加した。戊辰戦争後、天童藩は存続を許され、織田信敏が最後の藩主(藩知事)になったが、明治4年(1871)7月廃藩置県により天童藩は廃藩となって天童県となり、同年8月には山形県に編入された。