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山形県大蔵村清水

震災前取材

 

白須賀館は、南から北に舌状に突き出ている小段丘上に築かれた館で、比高20m程で、八幡神社の裏には土塁と空堀が見られる。

また、この地一帯は、4000~5000年前の縄文中期の遺跡にもなっており、高さ1mものやすり鉢型土器が発掘されている

文明8年(1476)、山形城の最上氏一族の、成沢城主兼義の子の、孫次郎満久がこの地に入部し、この白須賀館を居館とした。しかしながら、城内の様子が近隣の高地から見下ろされてしまうことから、2年後の文明10年(1478)に、急流最上川に守られ、要害険阻な地に清水城を築城し移った。この地は、「元館」または「古館」と呼ばれ、その後も清水城の出城的な役割を持っていたと思われる。

以来、城主は清水氏を称しこの地を最上氏の北の拠点とした。以後、慶長19年(1614)までの138年間にわたって、最上地方南部で武威をふるった。清水氏は、清水義氏の代に男子がなく、山形の最上義光の三男義親を養子とした。義親は、関ヶ原の戦いの際には出羽合戦で活躍し、その後の上杉軍の追撃の総大将となるなど、戦功著しかった。

しかし、慶長19年(1614)1月、実父の義光が没し、兄の家親が最上藩を継ぐと、大阪の陣の直前の同年11月、家親は義親が大坂方へ通じているとの疑いをかけ清水城を攻めた。このとき、家親勢は「要の松」付近で最上川をわたり、清水勢が篭るこの館を攻略し、この地を拠点として清水城を攻めたと考えられる。この戦いで清水義親は嫡子の義継と共に自害し、清水氏は滅亡した。