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山形県最上町富沢

震災前取材

 

富沢観音は、貞観5年(863)、慈覚大師が東北行化の途中この地に来り、補陀落山と名づけ開山したと伝えられる。この地は馬産地で、各所に馬が放牧されている様を見て、自ら座像の馬頭観音を彫刻し安置した。

その後も歴代領主から崇敬され、天正8年(1580)には、小国日向守が祈祷料を奉納し、小国氏が滅亡の後は最上氏が、最上氏が改易になると、新たに領主となった戸沢氏が、富沢観音を武運長久、厩繁盛と信仰した。戸沢氏は社領12石を安堵し、藩主が変わる毎に参拝に訪れ、寛政9年(1797)には観音堂を再建し現在地に遷座した。

最上町は、昔は小国郷と呼ばれ、名馬を産する馬産地だった。ここで産する馬は小国駒と呼ばれ、山形、秋田、越後地方にまで移出されていた。当時の出羽の名産番付にも、新庄領内の名産番付にも小国駒の名は記されている。

この地方では、馬は飼うものではなく造るものだといった。人々は「馬造り講」を開き、春秋2回、伯楽を招き馬の健康診断をうけ、各自の馬造りの秘訣を披露し合っていた。講の日は夫婦とも出席、餅をつき、盛大な振る舞いを行ったと云う。

正月には、馬頭観音別当東善院の住職を招いて厩祈祷をしてもらい、門口に守護札を貼って馬の無事成長を祈り、馬が病気にかかれば、東善院からお守りを申し受け、これを水に浮かべて馬に呑ませたと云う。また、縁日には、参道両側に露天が立ち並び、終日、美々しく着飾った遠郷近在からの参詣人で喧騒を極めた。

現在、東北三大馬頭観音とも呼ばれ、今も多くの参詣者が訪れ、観音堂内壁にはびっしりと絵馬が掲げられている。最上三十三観音の第三十一番札所となっている。