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山形県最上町富澤

震災前取材

 

万騎ノ原は、戦国末の天正8年(1580)、現在の最上町小国の領主細川氏の軍勢と山形最上氏の軍勢が戦った古戦場である。

細川氏は、兄の摂津守直元が本城に岩部の館(後の小国城)、弟の帯刀直重が志茂に水手の館をそれぞれ構え、兄弟で小国8千石余を支配していた。四周を大小の山々に取り囲まれた天険の地で、外敵の侵入をそう恐れることもなく、安定した政を行っていた。

しかし山形の最上義光は、出羽統一を目指し勢力を拡大してきており、これに対し細川氏は、天童の天童氏らとともに最上八楯を形成していた。このため早くから最上義光と対立、天正最上の乱では最上義守、中野義時方に属し敗れ降伏している。

最上義光は、現在の尾花沢市の天童ヶ原で馬揃えを催したが、義光と対立していた天童頼澄に姫を嫁がせていた直元は、この馬揃えに参加しなかった。これは、最上義光 はこれを宣戦布告と等しいものと受け止め、天正8年(1580)、天童頼澄を滅ぼすと、蔵増光忠に命じてこれを攻めさせた。光忠に率いられた最上の軍勢3千500は山刀伐峠を越え、小国に攻め込んだ。これに対し、細川方は総勢350でこれを迎え撃ったが、10倍に及ぶ最上軍になす術もなく、小国城は炎上、細川一門は滅亡した。

この地は古くから馬産地で、この「万騎ノ原」はもとは「牧の原」だったとも云われている。