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山形県舟形町舟形

震災前取材

 

新庄藩は、当初は奥羽越列藩同盟側にあり、仙台藩らとともに新政府軍側の秋田久保田藩と雄勝峠などで対峙していたが、新庄藩主の正室が薩摩藩出身だったことなどもあってか、途中脱盟し新政府軍に与した。これにより仙台藩の部隊は前後に敵を受けて壊滅した。

慶応4年(1868)7月10日、これにより福島県の白河口に向い楯岡まで進軍していた庄内藩の第二大隊は急遽引き返し、7月12日、新庄藩と長州藩が固めるこの地で対峙した。

7月13日朝、欅坂付近で発した銃声に端を発し戦闘が始まった。庄内第二大隊は、山形、仙台藩と共に小国川南岸に布陣、新庄、薩長藩の新政府軍は、山ノ神山頂とその麓付近に布陣した。庄内勢の一隊は小国川を渡河し、山ノ神に布陣する新政府軍の背後を急襲した。

不意をつかれた新政府軍は白刀を以て戦ったが混乱に陥り、これを見た庄内勢は総攻撃を開始、山ノ神山麓で激しい銃撃戦となったが、庄内藩は同盟軍の中では装備も比較的新式で士気も高く、混乱した新政府軍は潰走した。

庄内勢を中心とした奥羽越同盟軍はそのまま追撃し、翌日の14日には新庄城を猛攻し、これを落とした。