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山形県舟形町富田

震災前取材

 

延文5年(1360)、源義家の末孫、源次郎義元の次男の源次郎義高がこの地に入り、始めは轟に館を築き、その後貞治元年(1362)に沢口山のこの地に館を移した。その後、猿羽根(さばね)氏を称するようになり、以後この地を本拠とした。

猿羽根館は、最上川右岸の西側に延びた比高70mの尾根先端に位置する山城で、尾根を空堀で分断し、西側から二の郭、主郭、三の郭と続き、また北側斜面の郭群からなる。主郭は東西約30m、南北約40mほどで、二段に削平され、南側は櫓台と考えられる。主郭の西側には、幅約20m、深さ3~5mの巨大な空堀があり、二の郭と分断されている。東側には幅7~8m、深さ3~4mの二重堀があり、三の郭と区画されている。猿羽根館の北西麓の河岸段丘上には城下が構えられ、館主は通常は山麓に居住していたと考えられる。

猿羽根氏は、天正17年(1589)までの227年間、七代にわたり、凡そ6千7百石を領していた。しかし、戦国末期九代目義舜の代に、最上郡に侵攻した山形城主最上義光の支配下に組み込まれるが、天正18年(1590)、義舜は謀反を企てたとして、東根の長瀞で切腹を命じられ、猿羽根氏は断絶し猿羽根館は破却された。