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山形県大石田町大石田乙

震災前取材

 

聴禽書屋は、二藤部兵衛門の隠居所として、昭和8年(1933)この地に建てられた木造二階建ての独立家屋である。大石田町に疎開した齋藤茂吉が、昭和21年(1946)2月より、その住まいとしたのがこの離れであり、ここに翌22年11月まで居住した。建物は歴史民族資料館の敷地に保存公開されている。

斎藤茂吉は、歌人として有名で、大正から昭和前期にかけてのアララギ派の中心人物である。明治15年(1882)5月、現在の上山市金瓶に、守谷伝右衛門熊次郎の三男として生まれた。守谷家は経済的に厳しく、茂吉が小学校卒業後に進学するだけの余裕が無く、親戚で浅草の医師の斎藤紀一の家に養子に入ることとなった。

開成中学(現開成高校)から第一高等学校(現東京大学教養学部)に進学し、その後東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)に進んだ。この間、正岡子規の歌集を読み感動し、歌人の伊藤左千夫に弟子入りした。その後、病院に勤務する傍ら創作活動をおこない、「アララギ」の編集もてがけた。

大正3年(1914)、養父斎藤紀一の長女の輝子と結婚したが、輝子は派手好きな女性だったといい、律儀な茂吉とは性格があわず、結婚生活は円満だとは言えなかったようだ。

精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリアに留学、青山脳病院院長をつとめた。その傍ら、旺盛な創作活動を行い、プロレタリア短歌や象徴主義と激しく論争し、日中戦争、太平洋戦争には愛国の心情を戦争の歌に詠んだ。また、柿本人麻呂、源実朝らの研究書や、『念珠集』などのすぐれた随筆も残している。

昭和20年(1945)、太平洋戦争の悪化のため青山脳病院院長を辞職、山形県上ノ山町金瓶に疎開、翌昭和21年に大石田に移り住んだ。戦後、太平洋戦争中に積極的に戦争協力を行ったとして批判にさらされ、また大石田では、3ヶ月におよぶ病臥の苦しい日々を送った。敗戦の深い悲しみ、病床での孤独感などを味わいながらも、みちのくの風土と、周囲の人々のあたたかいまごころにつつまれるなか、茂吉の詩情は高まったようで、癒えてからは最上川をはじめ近在を積極的に歩き創作活動を行い、この大石田在住2年間の作品は、歌集『白き山』としてまとめられた。

最上川 逆白波の たつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも  『白き山』

昭和28年(1953)2月、心臓喘息のため東京都新宿区の自宅で死去。戒名は自選により最初の歌集「赤光」の名をとり「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」。