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山形県大石田町大石田

震災前取材

 

大石田河岸は延文元年(1356)に始まった。天正8年(1580)には、最上義光は最上川の三難所を開削し最上川舟運が発達すると、大石田は江戸期を通して最上川最大の船着場として発展し ていく。寛永年間(1624~44)には延沢銀山の隆盛もあり、最上川舟運はさらに発展した。

元禄 期には、最上川を就航していた舟は、大石田舟290隻、酒田舟250隻余で、その積み出し米は24万俵を数え、500有余の舟が毎日最上川を上下する様子は壮観だったろう。

最上川舟運は年貢米のほか、紅花、青苧、煙草などの特産品を運び、その戻り船で、文化や技術がもたらされたほか、塩、海産物、衣服、木綿などの生活必需品が移送された。寛政4年(1792)には大石田川舟役所が設けられ、幕府が舟運の統制を図った。

江戸時代は「ひらた舟」が主に用いられたが、明治時代は幅の狭い「小鵜飼舟」が用いられた。小鵜飼舟は元禄年間に上杉藩で用いられるようになった小型で速く小回りのきく舟であった。しかし明治34年(1901)、大石田まで鉄道が開通し、その後陸羽西線が酒田まで開通すると最上川舟運は役割を終えることになった。

現在、最上川の大橋の北岸に、大石田河岸の風景が再現されている。「川船方役所」の大門や塀蔵などが堤防の建設にあわせ復元されている。

松尾芭蕉は山寺を見物した後、羽州街道を北上し大石田に入った。ここに3日間滞在し、句会を開いたりしながらゆっくりと体を休めた後、新庄に向かった。「奥の細道」には次のように記されている。

最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角(ろかく)一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰に至れり。