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秋田県大館市中城…桂城公園

震災前取材

 

別名:桂城

大館城は、現在の大館市の中心部に位置し、北側は切岸で南側には二の郭、三の郭を配し、周囲には水掘がまわされ、南側は二重の水堀で守られていた。本郭は、東西が北側でおよそ180m、南側でおよそ220m、南北はおよそ90mの台形状であり、周囲には高さ約3mの土塁がまわされ、表門の両脇の一部に石垣が見られ大枡形になっていた。城門は七つあり、その中で最大のものが現在の桂城公園の正面入り口にあった表門で、高さ約6.6m、幅約6.9mの規模だった。

現在、二の郭跡には市役所があり、三の郭跡も官庁街となっており、本郭跡が桂城公園として整備されている。

築城時期等詳細は定かではないが、天正10年(1582)以前に、浅利勝頼により築城されたと伝えられる。浅利氏は、源頼朝の奥州征討の後、その功により地頭となり、比内を中心に勢力を張った。

戦国時代には、この地は浅利氏、南部氏、秋田安東氏、津軽氏の係争の地となった。秋田愛李は浅利勝頼を謀殺しこの地を領し、五十目兵庫を城代とした。しかしこの五十目氏が南部氏に内通したことで、一時この地を南部氏に奪われ、三戸城から北信愛が城代として入った。天正18年(1590)、南部氏の九戸の乱の騒動を機に秋田氏が再び支配することとなり、秋田実季の弟の実泰が城代となった。

関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602)、常陸の佐竹氏が秋田に減移封となり、そのあおりを受けて秋田氏は常陸の宍戸に移った。佐竹氏が秋田に入り、この城を接収する際に、浅利氏の旧臣がこの城に篭り反乱を起こそうとした。佐竹義宣は檜山城代の小場義成を鎮圧に向かわせたが、戦闘は浄応寺の僧の仲介により回避された。

慶長15年(1610)、義成は津軽、南部の境を固めるために、正式に大館城主として入城した。その後、一国一城令が敷かれたが、この城は例外として横手城とともに存続を認められ、小場氏はのちに佐竹を名乗ることを許され、佐竹西家として明治まで十一代にわたりこの地を治め、大館は秋田久保田藩の北の拠点として発展した。

その後、慶応4年(1868)、戊辰戦争が起こると、秋田久保田藩は西軍側につき、大館地方は同年8月、南部藩の楢山佐渡の率いる南部軍の十二所、長木口攻撃で戦場と化した。南部勢は新式銃と大砲を装備していたが、対する秋田勢には新式銃はわずか5挺しかなく、兵数も圧倒的に劣勢だった。同年8月21日、秋田勢は城を守るべく、大館城前面に陣を敷き戦い、大館城下での攻防戦となったが、装備の優劣と兵数はいかんともしがたく破れ、城に火を放ち退城した。

秋田勢は、羽州街道の難所のきみまち阪まで退き陣をかまえ、これに援軍の肥前小城勢が加わり軍容をととのえ南部勢に備えた。肥前小城勢は最新の洋式装備を整えており、きみまち阪に至った南部勢を破り、また南部勢も弾薬の不足のため大館から兵を退き、9月6日に大館城を奪回した。しかし大館城をはじめ大館の町屋は兵火に罹り、町屋29軒を残すのみで、文物ことごとく烏有に帰した。