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秋田県湯沢市院内銀山町

震災前取材

 

院内銀山は、慶長11年(1606)、に村山宗兵衛らにより発見された。秋田久保田藩は翌年宗兵衛を山先とし銀山奉行を定め開山し、徳川家康に院内銀を献上した。当時の銀山従事者は7千人だったと云う。

当時、ローマで作成された地図にもその名が記されており、江戸時代を通じて日本最大の銀山だった。他の主要鉱山が幕府直轄地であったのに対し、院内銀山は藩が運営し、大量の産出銀はもとより、莫大な税収と専売収入が得られ、秋田久保田藩は、森林資源を「木山(きやま)」、鉱山資源を「金山(かなやま)」と呼び、藩の重要な財源だった。

慶長期(1606~15)には5千300貫(約20t)の最高年産を記録したが、江戸時代の中頃に、一時鉱脈の枯渇により衰退した。しかし寛政12年(1800)以降の新鉱脈の発見により持ち直し、天保期(1830~44)には1千200貫(約4.5t)の平均年産が10年以上も続き「盛り山」と呼ばれた。最盛期には、戸数4千、人口1万5千人を擁し、城下町久保田をも凌駕する藩内で最も大きな街となった。各地から人と共に文化が流入し、「出羽の都」と呼ばれるほどの繁栄を誇った。

明治に入ると、鉱山の経営権は国の工部省に移り、巨大な投資により近代化され、雄勝峠の整備により大量に輸送することが可能になった。明治14年(1881)明治天皇の東北行幸の際に、天皇は自ら5番坑道に入り視察した。このとき天皇が入った坑道は「御幸坑」と名づけられ保存されており、坑道に入った日の9月21日は、鉱山記念日となっている。

その後、明治18年(1885)、経営権は古河市兵衛に払い下げられた。古河は、払い下げられた最新式掘削機器に加え、全国の鉱山から西洋で学んだ技術者を連れて来て近代的な鉱山経営を行った。これにより、銀の産出量が増え、明治28年(1895)には4千100貫(約15t)の年産を記録した。古河は、阿仁鉱山など東北地方を中心に多くの鉱山の経営も行い、後には日本最大の鉱山であった足尾銅山を買収し古河財閥を作り上げた。

しかし、明治末期には銀が暴落し採算が悪化、大正年間(1912~26)には規模を大幅に縮小し採掘を続けていたが、昭和29年(1954)閉山となり350年間の歴史に幕を下ろした。