秋田県大館市御成町一丁目…JR大館駅前

震災前取材

 

東京の渋谷駅前に銅像が立っている「忠犬ハチ公」は、秋田犬の発祥地であるこの大館市で生まれた。

子犬のハチは、大正13年(1924)、犬好きの東京帝国大学農学部の教授、上野英三郎博士に飼われることになり、米俵に入れられ、急行列車で故郷を出発し、渋谷の上野氏の家に着いた。

博士は無類の犬好きで、それまで4頭の秋田犬を飼ったが、いずれも1歳から2歳でなくし博士を悲しませていた。それだけに、子犬のハチを大いに可愛がったことは想像にかたくない。

ハチもそれに応え、博士が出かけるときは、玄関先や門の前で見送り、時には歩いて5分ほどの最寄駅の渋谷駅まで送り迎えすることもあった。しかし大正14年(1925)5月、博士は急死してしまう。

ハチは博士の死を知らず、夕方に農学部の校門で暗くなるまで待ったが、博士があらわれることはなく、家に帰れば、家中がバタバタしており、異変を感じたハチは、博士のにおいの残る遺留品の置いてある物置へ入り、そのまま3日間何も食べなかったと云う。

通夜が行われ、告別式が終わり、しかし死の意味のわからないハチは、しげしげと博士を渋谷駅に迎えに通い始めた。しかし、博士の急逝により、渋谷の家は立ち退かなければならず、ハチも上野夫人の日本橋の親戚の呉服屋に預けられた。

上野夫人は、たびたびハチの様子を見に来たが、ここでの暮らしは慣れない紐でつながれ、思うように運動もできない状態だった。あるとき、店の小僧さんがハチの紐をといたところ、呉服屋の店内をとびまわり、品選びをするお客の後ろ姿を上野夫人と間違えて飛びつき、このためこの家にいられなくなってしまった。

元気すぎるハチの飼い主はその後も次々と変り、その住まいも転々と変わった。その間も、ハチは懐かしい思い出のある渋谷駅を求め続けていたようだ。結局ハチは、昭和2年(1927)、渋谷駅から20分ほどの距離にある富ヶ谷の小林氏に飼われることになった。小林氏は、植木職人として博士邸に出入りしており、ハチのことも良く知っていた。

小林氏は、このハチを可愛がったが、この頃からハチの本格的な渋谷駅通いが始まったのだろう。ハチは、駅への途中は必ず旧博士邸に立ち寄り窓から中を覗き、博士が帰っていないのを確かめ、駅に着くと、博士が出てくる改札口前に座っていた。

しかしハチの思いとは裏腹に、ハチをとりまくものは暖かいものではなかった。野犬捕獲人につかまったり、小荷物室に入り駅員にひっぱたかれたり、顔に墨を塗られたり、屋台の親父にお客の邪魔と追われたり、あわれなものだった。

博士が存命中のハチを良く知っていた、日本犬保存会の斉藤氏が、たまたま渋谷駅でハチに再会した。斎藤氏はこのハチのあわれな様子を見かねて、ハチの悲しい事情を人々に知らせ、もっといたわって貰いたいと考え、朝日新聞に投稿した。このことが大きく報道され、その後は、駅員や売店の人にも可愛がられるようになり、この頃から「忠犬」がつけられ、「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。

昭和10年(1935)3月、渋谷川に架かる稲荷橋付近の路地で死亡した。

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