秋田県秋田市山内田中

2015/08/28取材

 

藤原藤房は、後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、楠木正成とともに日本三忠臣の1人に数えられている。

文保2年(1318)、後醍醐天皇践祚に際して、蔵人に補任され、元弘元年(元徳3年、1331)には中納言に転正し正二位に叙された。しかし同年、天皇の倒幕計画が露見し、北畠具行らとともに天皇に供奉し笠置へ逃れた。幕府軍との攻防の末敗れ、藤房らは天皇を助けて敗走、捕捉され常陸に流された。その後、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年(正慶2年、1333)に上洛し復官を果たした。

硬骨漢として知られ、後醍醐天皇に直言することも多く、特に武家の棟梁の出現を危惧し、再三諫言を繰り返したが、天皇に聞き入れられることはなかった。

藤房は世をはかなみ、権謀術策の渦巻く世界を離れ、出家の志を持って北陸に向かい、能登の総持寺で修業し、羽後に教えを広めることを目指す月泉良印禅師と出会い、互いにその人柄に惹かれ、共に羽後に向かった。

やがて羽後の松原に到り、土地神「亀蔵仙人」の縁により、草庵を結びそこに起居し、岩上にるいは雪洞に座禅を行い、粗食に耐えて励ましあいながら厳しく禅の道を求めた。

その後、安東氏の庇護を受けて補陀寺が開創されると、修行僧が数多く集まり大道場になった。藤房はこの地で出家し無等良雄和尚として、補陀寺二世となった。

その後、天皇より「神光寂照禅師」の名を賜り、貞治元年(1362)に没した。

 

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