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秋田県秋田市下浜長浜字荒郷屋

2016/07/26取材

 

この本敬寺(ほんきょうじ)の開祖は朝倉義景の一族の朝倉道景と伝えられ、かつては越前の国にあった。

朝倉氏は、越前の一条谷に居を構えた戦国期の一大勢力だったが、織田信長と対立し、浅井長政と結び姉川の戦いで織田・徳川連合軍と戦ったが敗れ越前に敗走、織田勢の越前侵攻に本拠の一乗谷も捨て、一族も次々に離反し、義景は自害した。朝倉道景はこのとき現在の秋田市勝平に逃れて来たと伝えられる。元和2年(1616)に勝平から現在地に移転した。

この本敬寺には、戊辰戦争時の出羽松山藩士毛呂太郎太夫正孝の墓がある。

慶応4年(1868)7月、秋田藩は奥羽越列藩同盟を離脱し、また新庄藩も現在の金山町での戦いの最中に列藩同盟を脱盟し、仙台藩の部隊が壊滅した。庄内藩は直ちに新庄城を攻撃しこれを落とした。

荘内勢は海岸沿いにも兵を進め、毛呂正孝ら250人の松山隊もこれに合流した。毛呂は、松山二番隊の物頭として庄内藩三番大隊と共に出陣、9月には秋田城下へわずか10キロ地点のこの長浜の地まで進んだ。

この長浜攻防戦で、毛呂は左翼山手進撃先鋒となったが、夜道に迷ってしまったが、火の手が上がるのを見てその方向に毛呂隊は突入した。毛呂は抜き打ちに先頭の敵を切り、返す刀で次の敵の槍の柄を落とすが、そこへまた脇から襲われ、間合いが近かったため組んで投げ倒し押さえつけたが、多勢に一斉に銃撃され戦死した。この戦いで、 庄内側戦死者は毛呂隊長以下6名、新政府軍側は12名が戦死した。

しかし列藩同盟側の敗色は濃く、9月4日、米沢藩が降伏し、10日には仙台藩が降伏、22日には会津藩も新政府に降伏した。会津藩が降伏すると庄内藩も秋田久保田領内から一斉に退却し、24日に降伏した。