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秋田県秋田市手形字蛇野…闐信寺

2016/07/27取材

 

佐竹義重は常陸の戦国大名で佐竹氏第十八代当主である。

天文16年(1547)、常陸の佐竹義昭の子として誕生した。永禄5年(1562)家督を継いで第18代当主となった。義重は北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた。また金山開発を盛んに行い、最新の冶金技術を導入し豊富な資金力を得て関東一の鉄砲隊を備えた。

義重は上杉謙信と連携しながら、小田氏を攻め小田城を奪取するなど勢力を拡大し、相模の北条氏と対立するようになった。北条氏は南奥羽の蘆名氏や結城氏と結び佐竹氏に対するようになった。北条氏との戦いの中で、義重はその勇将ぶりを見せ、7人の敵を一瞬で斬り伏せたとも伝えられ、その勇猛さから「鬼義重」、「坂東太郎」の異名された。

佐竹氏は南奥羽に手を伸ばし、元亀3年(1572)には白河結城氏を配下に置き、縁戚関係を利用して岩城氏も傘下に収め、天正3年(1575)には白河城を奪取した。しかしこの義重の南奥への進出は、米沢から南奥に進出しようとしていた伊達政宗と対立することになる。

義重は天正13年(1585)、伊達氏と対立する二本松の畠山氏救援の名目で、葦名氏との連合軍を結成して奥州に出陣、人取橋で伊達勢と衝突した。この戦いは兵数で優位に立つ義重が有利に戦いを進めたが、本国常陸に対して、江戸の太田氏が不穏な動きを示しているとの報告が入り、義重は撤退し葦名勢も撤退した。この合戦により、南奥では伊達氏が勢力を拡大することになった。

義重は伊達氏の動きを封じるために、次男の義広を葦名氏の養嗣子とし、天正16年(1588)、奥州の諸大名と連合して再び政宗と戦った。兵力では圧倒的有利だったものの、諸大名の利害が複雑に対立しており、義重は結局和睦することを余儀なくされた。伊達政宗はこの間、南奥諸大名に対し着々と調略を進め、翌天正17年(1589)、葦名氏の会津に攻め込み摺上原の戦いで葦名氏を破った。葦名義広は佐竹氏の許に走り、南奥羽はほぼ伊達氏の手中に帰した。これにより佐竹氏は、南から北条氏直、北からは伊達政宗という2大勢力に挟まれ、滅亡の危機に立たされた。

しかし天正18年(1590)、かねてから誼を通じていた豊臣秀吉が小田原征伐に乗り出すと、義重は嫡男義宣とともに小田原に参陣し、秀吉から常陸54万石の支配権を認められ、常陸内の不穏勢力を駆逐し常陸国内を統一した。

その後は義宣に実権を譲渡し、本拠の太田城で隠居生活を送っていたが、慶長5年(1600)に石田三成と徳川家康が対立した。義宣はかねてから懇意だった石田三成の西軍に付き、会津の上杉勢と呼応し徳川勢と戦う構えを見せていた。しかし、時流を読んで徳川家康と誼を通じていた義重は東軍に与することを主張し、義重と義宣は対立した。

関ヶ原の戦いで義宣はかねてから懇意にあった石田三成の西軍に付こうとしたが、時流を見ていた義重は徳川家康の東軍に与するように述べ、父子は対立した。結局上杉氏と徳川氏の決戦は行われず、関ヶ原の戦いでは徳川方が勝利し、結果として佐竹氏はどちら側にもつかない形になった。しかし戦後の慶長7年(1602)5月、その曖昧な態度を理由に、佐竹氏は出羽久保田20万石に減封された。

義重は、就寝時に敷布団を使わず、薄い布だけ敷いて寝ていたという。出羽への転封の後、「北国は寒いから」と義宣から寝巻きと敷布団を送られて使ってみたものの、結局気に入らず再び敷布団を使うことはなかったという。

久保田移転後、領内では反佐竹一揆が頻発した。このため義重は、義宣とは別に六郷城に居を構え、所領の南部を抑えていたが、慶長17年(1612)4月、狩猟中に落馬して死去した。享年66歳だった。