秋田県仙北市角館町字西勝楽町

震災前取材

 

この角館の地を領していた葦名氏が三代で断絶したことにより、明暦2年(1656)に佐竹氏一族の佐竹北家の佐竹義隣が大仙市長野から角館に入った。常光院は、佐竹北家の菩提寺で、佐竹北家とともにこの地に移った。

現在の本堂は、明和2年(1765)に建てられたもので、境内には佐竹北家の墓地のほか、戊辰戦争で戦死した官軍墓地がある。

佐竹北家は、佐竹氏十五代義舜の弟の義言を祖とし、戦国期も一貫して佐竹宗家を支えてきた。佐竹氏は常陸太田を本拠とし、南は江戸氏や北条氏と争い、北は伊達氏と争い、奥羽では会津葦名氏に養子を送り込むなど、南奥にもその勢力を拡大していた。

しかし、人取橋の戦いは伊達政宗が制し、摺上原の戦いで葦名氏が滅亡すると南奥は伊達の勢力下になったが、佐竹氏は豊臣秀吉と結ぶことでその勢力を保持することができた。

慶長5年(1600)、関ヶ原合戦に際して佐竹義宣は、家康に敵対する意志のないことを表明しながらも、裏では石田三成や会津の上杉景勝と通じていたとされ、これがのちに佐竹氏が常陸から出羽へ転封となる原因となった。慶長7年(1602)春、義宣は家康と大阪城の豊臣秀頼に謁するため水戸を出立し上洛した。すでにこの時期には関ヶ原の戦後処理はほぼ済んでいると思われていたが、在京中に義宣は、家康から領国は没収、出羽への転封が命じられた。

義宣は領国の常陸に戻ることも許されず、また石高も不明のままの転封だった。義宣らは京から直接秋田へ赴き、このときの供連れはわずかに93騎であったという。常陸の重臣や近臣らも遅れて常陸から秋田に下向したが、このような状況下で常陸に土着したものも多かった。

佐竹北家は秋田へ移り、当初大仙市長野に所領を得た。六代義廉没後は、佐竹義宣の末弟の義直が北家を継いだが、義直は佐竹宗家の嗣子となったため、元和7年(1621)北家は一時断絶した。しかし寛永5年(1628)、佐竹義宣の妹の子である、京の公家の高倉大納言永慶の次男、義隣(よしちか)と佐竹氏の娘との縁組により北家を継がせて再興させた。

義隣は明暦2年(1656)3千600石を与えられ角館に入った。義隣の子の義明は、正室を京の公家の西三条家から迎え、この北家二代の間に角館には京との深い交流が生まれ、京都円山公園の枝垂れ桜が内町の武家屋敷に移植されたのを始め、京から多くの文物が取り入れられた。

佐竹北家は、その後角館で十一代続き明治を迎えることになる。

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