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秋田県秋田市八橋本町二丁目…帰命寺

2016/07/27取材

 

この帰命寺には、石田三成の墓と伝えられる墓碑がある。定説では、

石田三成は関ヶ原の戦いに敗れ、伊吹山に逃れ、古橋まで逃れた。しかしついに田中吉政の追捕隊に捕縛され、大津城に護送され、城の門前で生き曝しにされた。その後、大坂に護送され、小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂、堺を引き回されたのち、京都の六条河原で斬首された。首は三条河原に晒され、その後、京都大徳寺の三玄院に葬られた。

しかしこの地の伝承によれば、

処刑されたのは影武者であり、三成は逃げ延び、京都大原の阿弥陀寺に身を隠し、そこで得度し名を長音と改めたという。三成は佐渡や江戸、羽前を歩き修行を重ね、江戸では天海上人と交流を深めた。その後、懇意だった佐竹義宣を頼り秋田に下り、この帰命寺を創建し延宝6年(1678)、79歳で没したと云う。

石田三成は永禄3年(1560)生まれとされ、墓石の没年からすると118歳で没したことになり、三成と佐竹義宣が懇意だったことと、日本人の判官びいきが作り出した伝承だろう。

しかし、三成の娘辰姫や次男重成が、津軽為信の許に匿われ、辰姫は津軽三代藩主の生母となっていることから、三成の縁者が秋田に匿われたことは十分にあり得ることだ。

 

 

2 thoughts on “石田三成の墓

  1. 私の母の実家は秋田の大館市出身です。
    その家に伝わる事は、
    ご先祖様が関ヶ原の合戦で敗れた豊臣方の重臣で伊吹山に逃れた後、佐竹義宣公に匿われて今の秋田に落ち延びてきたそうです。名前を何度も何度も変えて。
    はっきりそうだと告げた人はいませんが、そうなんじゃないかと思っています。

  2. なんとなく辿ってここに来ました。もしかしてご親戚にあたる方?でしょうか。ひょっとして小さい頃大館市花岡町に眠るご先祖様のお墓を一緒にお参りしたことがある?方でしょうか。祖父母の実家から歩いてすぐのところにあるお墓に何度もお参りしたことがあります。
    私は母からご先祖様が石田三成であることを聞きました。
    …もくのすけをご存知でしょうか。

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