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秋田県大館市二井田

震災前取材

文治5年(1189)、藤原泰衡は重臣の出羽比内郡の贄の柵の河田次郎を頼り、家臣3名と共にこの地に逃れ、結局この地で自害した。そのいきさつを、この地では次のように伝える。

河田次郎は、鎌倉勢との戦には、急な戦で遠隔地でもあったため参戦せず、世の形勢を観望していた。そのような中、泰衡が敗残の将として逃れて来た。

贄の柵は壮大な館を構えており、河田次郎は人望篤く、また近隣にもその武勇は知られており、泰衡を手厚く迎えた。しかし、鎌倉方からの追求は激しく、次郎は家臣らと軍議を開きその対応に追われた。泰衡はその物々しさに切迫した状況を察し、自ずから館を抜け出し川向いの葦原の中で自害して果てた。

次郎は困り果て、泰衡の首を鎌倉方へ届け出たが、源頼朝により不忠であると断罪され、斬罪に処せられた。その後頼朝は、河田一族を根絶やしにするよう命令を下し、一族の者は次々に捕らえられ処刑された。この付近に「ハリツケバ」の地名が残るが、それはこのときの一族の刑場だったと伝えられる。

その後、この地の人々は、次郎が氏神として崇敬した諏訪八幡神社と、泰衡を祀る錦神社を大切に護持し、現在に至っている。

館跡は現在は住宅地と畑地となっており、城柵を思わせる遺構は見られず、この地の解説板と「館」の地名に名残を残すだけである。