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秋田県鹿角市八幡平字長牛

2013/06/10取材

 

別名:秋元館

長牛城は、夜明島川右岸の比高およそ20mの舌状台地先端に築かれた平山城である。城の規模は、推定東西約900m、南北約400mほど。

東から南側は硯川を自然の濠としており、内部は浸食谷を利用した堀で仕切られた多数の郭群からなる。主なものは主郭・八幡館・タタラ館・ひや水館・矢投館・げんじょ館などである。

主郭は中央東寄りに構築され、規模は東西約40m、南北約35mほどで、主郭の東側に八幡館、西側にひやみず館が敷設され、城中枢としていたものと思われる。

同地は夜明島川に沿った沖積平野を眺望できる要地に位置しており、もともと開発領主の拠点として築かれたものを後世、巨大城館に拡張したものと推測されます。

長牛城は当初、鹿角四頭の内の一人である秋元氏の居城であった。秋元氏は上総国秋元庄の宇都宮氏一族とされる。しかしその後秋元氏は没落し、秋元弾正左衛門の時に秋田へ去ったという。

その後、一戸南部氏の一族である一戸摂津守が入城し、以後一戸氏は長牛氏を名乗り、南部氏側の安東氏に対する抑えとなった。

長牛縫殿介友義が城主の時の永禄9年(1566)、安東愛季の鹿角侵攻を受けた。友義は長牛城に籠城し、小川の流れが血で赤く染まったと言われる程の激戦の上、翌年三戸へ逃れ、長牛館と共に鹿角の地は安東氏の手に落ちた。

永禄11年(1568)、南部晴政は鹿角奪還のため南部信直と九戸政実を鹿角に派遣して安東勢を駆逐し、南部氏は鹿角奪還に成功、友義はこの際の軍功によって再び長牛城を賜った。