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山形県酒田市中央西町

震災前取材

 

文治5年(1189)、平泉滅亡のとき、藤原家の遺臣三十六騎が、秀衡の妹の徳の前(別説では秀衡の後室の泉の方)を守護して平泉を逃れ、やがてこの地に落ち延びた。徳尼公はこの地に泉流庵を結び、一族の菩提を弔いながら静かに余生を送り、建保5年(1217)4月、87歳で没した。泉流庵とは、平泉から流れてきたことを表し、後に泉流寺と改称された。

以後、遺臣三十六人は地侍となり、回船業を営み、酒田湊繁栄の礎を築き後に三十六人衆と称された。

開祖の徳尼公の木像は、宝暦元年(1751)に焼失した後、明和元年(1764)本間家三代四郎三郎光丘が京都で作らせた。尼公像をまつる廟も、寛政2年(1790)、本間光丘の寄進によって建立された。

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