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山形県山形市緑町三丁目…専称寺

震災前取材

 

駒姫は、最上義光の次女あるいは三女といわれている。その容姿は「双なき美人なりし」と伝えられている。

天正19年(1591)、関白豊臣秀次が陸奥の九戸政実討伐の帰路に山形へ立ち寄った際にこれを見初め、側室にすることを望んだ。しかし義光は、まだ童女であることを理由に断ったが、その後秀次から再三の要求があり、やむを得ず文禄4年(1595)、駒姫を京都へ上らせた。

しかし、京都に上ってすぐに、秀次事件が起き、最上義光は謀反に連座した嫌疑をかけられ軟禁され、秀次の妻妾子供らは全て斬罪に処せられることになった。秀次は高野山で切腹、駒姫も義光の必死の助命嘆願も虚しく、他の妻妾子供らと共に三条河原に引き立てられ、11番目に処刑された。山形からの長旅のため京都の最上屋敷で静養を取っていた間のことで、未だ 豊臣秀次とは対面もしていなかったとも言われている。

辞世の句
「罪を切る 弥陀の剣に かかる身の なにか五つの 障りあるべき」

この知らせを聞いた駒姫の母、大崎夫人(釈妙英)は悲しみのため、そのわずか14日後に亡くなった。

義光の歎きは深く、これ以降豊臣には距離を置き、徳川家康へ接近していく。慶長元年(1596)の伏見の大地震の際、加藤清正は真っ先に秀吉の所に駆けつけ、他の大名達も、我先にと秀吉の見舞いに訪れたが、義光だけは秀吉を差し置き、家康の所に駆け付け見舞っている。