スポンサーリンク

山形県遊佐町菅里字菅野

震災前取材

 

満州国建国に尽力した石原莞爾(いしはらかんじ)の墓は、戦後の住まいがあったこの山形県遊佐町の地にある。

石原莞爾は、明治22年(1889)1月、現在の鶴岡市で、旧庄内藩士で警察署長だった石原啓介の三男として生まれた。父親の転勤の為、転住を重ね、幼年期は乱暴な性格であったという。幼い莞爾を、小学生の姉が子守のため学校に連れて行った時には、教室で大暴れして戸を叩きながら「破るぞ、破るぞ」と怒鳴り散らしたこともあったと云う。しかし利発な一面もあり、小学校の一年生で一番の成績であり、特に読書や算数、作文の成績が優れていた。また病弱であったようだが、子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、将来の夢は陸軍大将になることだったと云う。

明治35年(1902)、仙台陸軍地方幼年学校に入学し、ここで石原は総員51名の中で一番の成績を維持した。特にドイツ語、数学、国漢文などの学科の成績が良かったが、器械体操や剣術などの術科は不得意であった。

明治38年(1905)には陸軍中央幼年学校に入学し、学校の勉強だけでなく戦史や哲学などの書物をよく読み、法華経に関する本もこの頃から読み始めた。また乃木希典や大隈重信の私邸を訪ね、教えをこうてもいる。

明治40年(1907)、陸軍士官学校に入学、学科成績は350名の中で3位だったが、区隊長らに対して反抗的だったと云う。士官学校卒業後は原隊に復帰、教官として非常に厳しい教育訓練を行った。明治44年(1911)、中国において孫文が大勝した報を聞いた時には、部下にその意義を説き、共に「支那革命万歳」と叫んだと云う。

大正4年(1915)陸軍大学校に入学し、戦術学、戦略、軍事史などの教育を施されたが、石原は膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。大正7年(1918)に陸軍大学校を次席で卒業、その卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した「長岡藩士河井継之助」であった。

その後ドイツへ留学、昭和3年(1928)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。ここでは、自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案、昭和6年(1931)に、板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。

満州事変をきっかけに「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし満州国を建国、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していった。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語り、その構想は、日本及び中国を父母とした独立国であり、また石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であった。

昭和11年(1936)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、戒厳司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にたった。昭和12年(1937)の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長で、対ソ戦に備え満州での軍拡を目していた石原は、中国戦線拡大には反対だった。戦線が泥沼化することを予見し不拡大方針を唱え、当時関東軍参謀長東條英機ら陸軍中枢と対立し、参謀本部から関東軍の参謀副長として左遷された。

石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視して、アジアの盟友を育てようと考えていたが、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿にした。東條も石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持ち、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。昭和13年(1938)には参謀副長を罷免され舞鶴要塞司令官に、同14年(1939)には留守第16師団の師団長に、昭和16年(1941)には予備役へ編入され現役を退いた。

現役を退いた石原は昭和16年(1941)に立命館から国防学の講師として招かれ、大学で国防論、戦争史、国防経済論などの講義を担当した。しかし東條による石原の監視活動が憲兵によって行われ、大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職した。

太平洋戦争に対しては「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。戦争終結時には、中国東亜連盟の繆斌(みょうひん)を通じ和平の道を探るが、重光葵や米内光政の反対にあい失敗した。

戦後、石原は東條と対立していたことが有利に働き、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。戦後は東亜連盟を指導しながら言論活動を展開し、マッカーサーやトルーマンらを批判、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した。

実生活においては、自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、遊佐町西山開拓地に移り、同志と集団農場を運営し、同志と共同生活を送った。昭和24年(1949)死去。享年60際だった。