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山形県鶴岡市黒川字滝の上

震災前取材

この地は、かつ て赤川渡し場があり、旧六十里街道の要所として、推定樹齢400年の赤松の大木と、街道の道標追分石、弘法清水などがある。追分石の一つには、「右はぐろ山さかた左つるがおかみち」と記され、もう一つには、「右酒田街道左鶴岡街道」とあり、江戸時代中期の安永四年と記されている。また青面金剛尊や、塞の神石、弘法大師の祠などが現在残っている。

六十里街道は、奈良時代後期の和銅5年(713)に、出羽国府と内陸の郡衙を結ぶ官道として開かれたもので、この地域では唯一の街道だった。

弘法大師は、20歳の時に剃髪し、42歳の時高野山で真言宗を開き、高野山の金剛峰寺で61歳で没した。生前は空海と称し、没後に後醍醐天皇より「弘法大師」の称号を受けた。湯殿山信仰と深く関わっており、この地域一帯には弘法大師の伝説が各所に伝えられている。この地には次のような伝説が伝えられる。

あるときむさくるしいなりの旅の坊さんが来て、舟を出してくれるように頼んだ。しかしそのなりを見て、渡し守は素っ気なく断り舟を出さなかった。旅の坊さんは、「この川を二本にしてしまうぞ」と言って立ち去った。その後大洪水となり、川の流れは二本になり、人々は大変難儀するようになった。後にこの旅の坊さんが弘法大師であることが判り、お詫びに堂を建てて弘法大師を祀ったと云う。