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山形県寒河江市石持町

2013/06/07取材

 

菖蒲沼古戦場跡は、寒河江市役所の北西方、長岡山の北麓にある。戦国時代初期の文明11年(1479)、高畠城主の伊達成宗と、寒河江大江氏十二代の為廣が激戦を交わした。

寒河江氏は、鎌倉幕府の初代政所、大江広元の流れを汲む一族であり、寒河江荘を支配していた。南北朝時代には南朝方として戦ったが、応安元年(1368、正平23年)、漆川の戦いで、北朝方の斯波兼頼に敗れ、以降は斯波氏の流れの最上氏に従属していた。一方の伊達氏は九代政宗の時、天皇家・将軍家とつながる正室を迎え、元中2年(1385)長井氏を滅ぼし出羽国置賜郡への進出に成功した。かくして、伊達氏と寒河江氏は最上川が流れる五百川渓谷を通じて、接することとなり、ことあるごとに対立するようになった。

文明11年(1479年)冬、伊達成宗は桑折宗義に命じて、寒河江城を攻めさせた。この時、寒河江氏と左沢氏の間で諍いが起こったため、溝延氏が仲裁し、また雪が深かったため桑折宗義は戦わずに退却した。年が明けて翌文明12年(1480)春、桑折宗義は再び寒河江に攻め寄せた。寒河江氏はこの菖蒲沼の地に溝延・左沢勢の伏兵をおきおびき寄せ襲い掛かった。

この地は沼沢地で、湿地帯にはまり込んだ伊達勢は動きがままならず、散々に矢を射かけられ、伊達勢は総崩れとなった。桑折宗義も数か所の傷を負い、ついには逃れることを諦め、自ら太刀で胸を突き自害して果てた。

その後、寒河江氏では惣領制がくずれ、内紛が勃発し、弱体化が進んでいくことになる。